(短編小説)スペース・ウォーク

タイトル「スペースウォーク」(四百字詰め原稿用紙五十四枚)

                       乃村寧音(チアーヌ)              


 宇宙人とは、新宿のロックバーで出会った。
 初めて会ったとき、彼はトイレの前で煙草を吸っていた。なぜ宇宙人なのかというと、わたしを宇宙に連れていってくれたからだ。だからそういうことにしておこうと思う。名前は知らない。
 ダンスフロアを出てトイレに向かって歩いていたら目が合った。彼がこちらをじっと見ていたのだ。年齢は二十代半ばくらいだろうか。目立つ美男というわけではないけれど、良く見ると涼しげな顔立ちをしていて、わりとタイプだなと思った。小柄で背は高くなく、やたらと痩せたガリガリ君で、ちょっと痩せすぎなのが惜しいなと思ったけれど、それでもタイプであることには変わりなかった。
 あまりにもぴたりと視線が合ってしまったので、目をそらすことができなくなってしまった。本当はそらして知らないふりをするべきだったのかもしれない。でもわたしはかなり酔っていたし、酔うと思ったことをそのまま言ってしまう傾向があるので、ついつい、
「ずいぶん痩せてるね」
と自分から声をかけてしまった。他に話すことも無かったからだ。彼は仕方なさそうに笑って、
「うん、病み上がりだから。ちょっと前まで入院してたんだ」
と答えた。言われてみると、なんだか病的な痩せ方に思えた。顔色も良くなかった。
「そうなんだ。もう大丈夫なの?」
 わたしはそう言いながら宇宙人の前を通り過ぎようとした。早くトイレに行きたかったし、いくらタイプだからといって知らない男と話し込むつもりもなかった。
 このロックバーはそんなに大きな店ではないし常連客が多いので、客同士はわりとフレンドリーな感じでしゃべる。かといってだらしない雰囲気はあまりないし、年齢層も割と高く、その分客層もいい。日本人と外国人の比率は大体いつも半々だ。バーという名前だけれど、DJブースと小さめのダンスフロアがあって、実質はクラブだ。スピーカーから出てくる 音が大きいせいで、よほど近づかないと話していることは何も聞こえない。宇宙人が側に寄ってきた。
「ああ、大丈夫だよ。なんなら、試してみる?」
 そう言いながら、宇宙人はわたしが閉めようとしていたトイレのドアを無理に押し開けて入ってきて、いきなりキスしてきた。逃げようとしたけれどダメで、かなりしっかりとキスされてしまい、自分の中のバルブが中途半端に開いてしまったような感じがしてわたしは慌てた。
「ちょっと、何するの、ダメだよ。わたし彼氏と来てるんだから」
「大丈夫、見つかったりしないよ。実はさっきからずっと君のこと見てたんだ。気づいてこっちに来てくれたんじゃないの?」
「違う、トイレに来ただけだってば」
 トイレはフロアからは見えない位置にあるから、和真がわたしを追って来ない限りは見つからないだろうと思った。それにしても、いきなり知らない男とこんなことになってしまったのは初めてだったので、どうしたらいいかわからなくなってしまった。トイレの中はとても狭い空間だし、おまけに戸が閉められてしまって完全な密室になっていた。
 ドアの外では、さっきからビッグ・ビートっぽいダンスミュージックが大音量で流れている。そういう時間帯なのだ。この店は老舗で、曲は古いものから最近のものまで、客のリクエストがあればほぼなんでもかけてくれる。夜の九時くらいから客はそれなりに入っているけれど、踊っている人間はほとんどおらず、にぎやかになり外国人たちが増えてきてダンスフロアに人が溢れ出すのは大体いつも十二時を過ぎてからだ。
「声出してもいいよ。こんだけうるさかったら、どうせ聞こえないからさ」
 宇宙人がそんな風に言う頃には、わたしはすっかり体から力が抜けてされるままになっていた。どうしてこんな風になってしまったのか自分でもわからないくらいだった。普段はしっかり閉まっているバルブがいきなり全開になって、あったはずの理性がどこか遠くへ行ってしまっている。それでもふと気になっていたのは、最初にキスをしたとき、ほんのわずかだけれど口の中にざらりとした粉を入れられたような気がしたことだった。口移しで、何か飲まされた気がする。確かにその前から酔っていたけど、そのあとからますます首の後ろが重くなりぼんやりしてしまっているのは確かだった。でもそれと同時に、興奮して息が上がるような感じが強くなっている。苦しいほどだった。
「ちょっと、ほんとにもうやめて、おしっこ出ちゃう」
 それは本当だった。ジントニックを立て続けに五杯くらい飲んだというのに、まだ一度もトイレに入っていなかったので、膀胱がパンパンだったのだ。だから来たのに、これじゃ用が足せない。頭がぼうっとするのはそのせいもあるかもしれない。とにかくもう、我慢の限界だった。
「じゃあ、見ていてやるよ。もう脱がせてやったから、あとは座ってするだけだろ」
「バカ、いい加減にして、さっさとここから出てってよ」
 わたしが便座に座りながら宇宙人を押しのけようとすると、宇宙人は上からわたしの頭を掴んでジーンズのファスナーを降ろしペニスを取り出した。それはすでに大きくなっていた。
「しゃぶって」
 押し付けられるようにして口に咥えさせられると子宮が縮む感じがして、それと同時に、意外なほど大きな水音を立てて膀胱から大量の尿が溢れ出した。



 どうやら飲み過ぎたらしい、ということに気が付くのは大抵の場合次の日の朝だったりする。まぁでも飲んでいるときに気が付くのだったらそもそも飲み過ぎたりしないだろう。起き上ろうとするとひどく頭が痛んで、ひっきりなしに吐き気がした。もう何も出るものがないというのに、胃がひくひくしている。わたしは体を丸めながら呻った。かなり強烈な二日酔いだった。
 とても会社に行ける体調ではなかったので、ベッドの中で考えて結局休むことにした。もしかしたら和真は少し心配するかもしれないけれど、理由はすぐにわかるだろう。
 わたしは商社で派遣社員をしている。仕事の内容は貿易事務で、和真はそこの社員だ。
 外語大を出て一度はちゃんと正社員として勤めたのだけれど、体調も精神もどちらも調子を崩してしまい、たった二年でその会社を辞めてしまった。その後しばらく療養して、スクールに入り直し半年ほどで受験、イギリスの大学に留学したところまではなんとか人生を立て直すつもりでいたのに、それもさんざんな経緯を辿った。
 持病の椎間板ヘルニアが悪化して、二年の予定が一年くらいで帰ってくることになってしまったのだ。せっかく苦労して入った学校を続けることもできず、貯金もそのときに使い果たしてしまった。わたしには何も残らなかった。おまけに無理をしたせいでまったく歩けなくなってしまい、帰国してすぐに手術を受け、まともに動けるようになるのに一年近くかかった。そんな風に、二十代のほとんどは過ぎ去ってしまった。
 こんなはずじゃなかった、とは思ったけれど、気力は戻らなかった。
 体が回復して普通に動けるようになったので、とりあえず派遣会社に登録し、今の会社で働き始めた。仕事は単調で辛いことも苦しいこともない。英語がある程度わかれば誰にでもできる簡単な事務仕事で残業もない。多くを求められることが無い代わりに収入もそれなり。まぁでも実家で親と住んでいるから、そんなに困ることもない。つまらないけれど平和な毎日だ。
 今年から付き合い始めた和真とはそれなりに楽しくやっている。
 和真は、一言で言えばまともないい人だ。優しいし、大事にしてくれる。でも何か違う気がする。何が違うのかはよくわからない。違うのはわたしなのかもしれない。
「何、また会社休んじゃったの」
 母がわたしの部屋のドアを開けて言った。以前、最終的にはこうやってずるずると会社を辞めてしまった経緯があるので、母の言い方は辛辣だった。
「だって具合が悪いんだもん」
「一体昨日は何時に帰ってきたのよ、まったく」
 母は少しぶつぶつ言ったけれど、それ以上は言わなかった。和真と一緒だったことを知っているからだ。先日、和真がうちに来て家族と夕食を共にしてから、両親の機嫌がやたらと良い。何かと心配の種だった二十九歳の娘がどうやら結婚しそうだとわかって、ほっとしているようなのだ。
 父と母が仕事に出て行き家の中がしんと静まり返ると、わたしはやっと起き上った。父は税理士で青山に事務所を持っている。母も事務所を手伝っているので、二人は一緒に出て行くのだ。ちなみに昔は、母は事務所を手伝うことはしていなかったのだけれど、度重なる父の浮気に耐えかねたのか、仕事場に居座ることにしたらしい。 
お風呂にも入らないで下着姿のままベッドに潜りこんでいたらしく、パジャマも部屋着も身に着けていない。部屋を出てキッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しラッパ飲みしていると、ふと二の腕の内側に目が行った。何か文字が書いてある。090から始まる数字。携帯電話の番号だった。なにこれ、と思いながら、心当たりはひとつしかなかった。
 あのあと、トイレの中で結局最後までした。わたしはドロドロに溶けてしまっていて、あんな場所だというのに自分からせがんでしてもらったのだ。途中からは、なんだかもうよく覚えていない。一気に酔いが回ったような感じだった。
 わたしは済んだあと、その場で便器に向かって嘔吐しまくった。胃が裏返るんじゃないかと思うほどの吐き気だった。そんなわたしの背中をさすりながら、宇宙人は「また会おうよ」と言った。わたしは返事ができるような状態ではなかった。それで宇宙人は、ポケットから油性ペンを取り出して、わたしのTシャツの袖を捲り上げ、そこに書き込んだのだ。「どうせ今言っても覚えていないだろうし、メモを渡しても失くすだろうからここに書いておくよ。また会いたい。連絡して」
袖を下ろしてしまえば見えないから、和真に見つかることもなかった。
 どうやって家まで帰り着いたのか。とにかく最後にタクシーを降りたとき、和真が心配そうにわたしを見ていたことだけは覚えている。

 シャワーを浴びようとして、その番号を携帯電話のメモに入れた。得体の知れない男の番号なのに。でも、体を洗えば文字は消えてしまうし、わたしはまだ少し考えたかった。
 勢いよくシャワーのお湯を出して、体の奥まで洗い流した。
 確かコンドームはつけていたから、妊娠と感染症の心配はしなくて良さそうだった。あんな時なのにマナーのいい男で良かった。
 少しすっきりしてバスルームを出ると、水とグレープフルーツジュースを大量に飲んだ。
 お昼頃、和真から電話がかかってきた。和真はしきりに謝っていた。わたしにとってああいう店は初めてだったと思っているらしい。別にそういうことはなく、昨日の店も以前に何度か訪れたことがある。まぁでも常連というほど通っていたわけでもないし、面倒なので黙っていた。
 和真はアメリカの大学を卒業しているのでその頃の友人も多く、飲んだ流れでたまに利用するらしい。昨日も店で外国人の知り合いに会い、そっちの人たちと盛り上がってしゃべっていたので、わたしが途中からしばらく側にいなかったことにどうやら気が付いていなかったみたいだった。
「大丈夫、ちょっと飲みすぎちゃっただけ。朝は二日酔いだったけど、もう収まったから」
「なら良かった。じゃあ、また明日」
 電話を切ると窓の外を眺めた。家はマンションの十五階なのでそれなりに景色はいい。良い天気だった。
 せっかく会社を休んでしまったけれど、七月なのでかなり暑く、炎天下に外に出て行く気にはなれなかった。それにまだ体調が良くない。エアコンの効いた部屋の中が心地よかった。
 夕方になって日が陰ってきたら少し散歩でもしようと思いながら、わたしはもう一度ベッドに入った。

 目を覚ますと夕方だった。よく眠ったせいか体調が戻っていた。
 ベッドの中でごろごろしていると、どうしても昨夜のことを思い出してしまった。ああいうことは初めてだったけれど、不思議と悪い印象は無かった。
 年齢を重ねるごとにガードが下がっているのだろうか。それにしても知らない男とトイレでセックスするなんて、我ながらとうとうここまで来たかという感じがした。
 それほど経験があるわけではないけれど、わたしは基本的に異性にだらしない。きっとそのへんは父に似たのだろう。初体験は十四歳のときで相手は通っていた塾の講師だった。
たまたま起こった事故のような初体験で、友達はまだの子がほとんどだったので、ちょっと自慢できた。済んでしまえば、感想はただそれだけだった。
 セックスというものは情緒的に捉えることもできるが、非情緒的に処理することもできるということを、そのときになんとなく知ったような気がする。女にとって初体験が大事だというのは、もしかしてこういう感覚を持ってしまうと後々性にだらしない人間になってしまうからかもしれない。
 恋人はその時々でいたりいなかったりした。あっさりした性格の、別れるときに揉めない男を選ぶ嗅覚だけはあったと思う。
 事故のようなセックスは、恋人の有無とは関係なく何度かあった。セックスというのは大体、事故のほうが気持ちいいので、困ってしまう。
 和真の前の、一番最近の恋人は、イギリス留学中に同じ寮にいたアルジェリア人男性だった。外国人同士の気安さでなんとなく仲よくなり、ふとした拍子で抱き合ってしまい、そのまま付き合い始めた。
 その彼とは椎間板ヘルニアが悪化して帰国するまで続いていた。外国人男性と付き合ったのはそのときが初めてだったけれど、とても優しく親切にしてくれたので感謝している。
 歩けなくなったわたしを何度も病院まで連れていってくれたのは彼だった。イギリスの病院は、イギリス人はもちろん外国籍の人も留学生もみんな無料なのだけれど、その代りいつ行ってもひどく混んでいてものすごく待つ。結局それが椎間板ヘルニアを悪化させた原因のひとつにもなったと思う。彼はわたしがイギリスで勉強を続けられるように協力すると言ってくれたけれど、親切な彼に負担をかけ続けるのは心苦しかった。帰国してからもしばらくはメールのやりとりをしていたけれど、今はもう連絡は取っていない。
 昨夜のことを思い出すと、体の奥が疼くような感じがした。でも頭の中ではまるで他人事みたいに感じている部分もあった。
 そのせいか、和真に悪いと思うこともなかった。むしろ、わたしの体もわたしの感覚もわたしだけのものなのだなあと、よく考えたら当たり前のことが腑に落ちた。
 携帯のメモに入れておいた電話番号に、わたしはかけてみることにした。電話はすぐに繋がった。
「もしもし」
 こちらを探るような話し方だった。良く考えたらお互いに名前を知らない。わたしも「もしもし」と言ってみた。するとすぐ、電話の向こうの声が大きくなった。
「あ、なんだ昨日の子か」
「そう。腕に番号が書いてあったからかけてみたんだけど」
「うれしいよ。今どこにいる?」
「家」
「家ってどこ」
「用賀だけど」
「なんだ、用賀だったんだ。ふうん、そのへんだったらよく知ってるよ。じゃ迎えに行くから、馬事公苑のあたりまで来てくれる?」
 馬事公苑のそばのファミレスで待ち合わせをすることになった。
 わたしはメイクをすると髪を丁寧にブロウし、柔らかい綿素材の白いカシュクールワンピースにこげ茶色のミュールを履いて外に出た。ワンピースはノースリーブで、裾のほうにアンティークレースの飾りがついているお気に入りだった。出かけに姿見で全身を見て、ちょっと迷ってピンクベージュの五分袖ボレロを羽織り、外へ出た。
 ファミレスに着いてしばらくすると、宇宙人がやってきた。青いTシャツに古着っぽいジーンズ姿だった。昼の光の中で見ると、昨日よりもさらに若く見えた。というより、学生にしか見えなかった。わたしはかなり不思議な気持ちになりながら彼をしげしげと眺めてしまった。やはり昨夜はかなり酔っていたらしい。年下だとは思っていたけれど、せいぜい二歳くらいの差だと思っていたのだ。
「昨日と印象が違うね。でも今日の服のほうがいいな。似合ってる、かわいいよ」
 会ってすぐに臆面もなくさらりと女を褒めるあたりは、なんとなく物慣れているのか、詐欺師なのか、それとも外国暮らしの経験でもあるのかという気がした。
「ありがとう。あなたは、学生?」
「一応ね。この近くの大学だけど、一年くらい行ってないんだ。やめなきゃいけなくなるかもな」
「この近くって言ったら農大でしょ。なんでずっと休んでるの?」
「最近はまぁ、入院していたからだけど…、めんどうになっちゃったっていうのが本当のところかな。ハーブ作って販売していたのがばれて、いろいろヤバくて。前に大麻栽培をやってた先輩が捕まっちゃったこともあったしさ、俺は捕まるのとか嫌だったから合法のやつでやっていたんだけど、それはそれでちょっといろいろあってさ。あ、ハーブって言っても、バジルとかローズマリーとかのことじゃないからね」
「ん? よくわからないけど」
「ああやっぱり知らないんだ。見たとこそんな感じだもんな。なんて説明すればいいのかなあ。合成カンナビノイドっていうのがあるんだけど…、それをベースにいろいろ組み合わせて作る脱法ドラッグのことだよ。実際はいろんなのがあるから一口には説明できないけれど、効きは大麻と似ているのが多いかな。今のところ違法じゃないから、けっこう売れてる」
「ふうん、大麻と似てるんだ」
「ふうんって、やったことあるの?」
「留学中にちょっとだけ」
 寮の中で本当に少しだけ吸ったことがある程度だった。そんなにいいものとも思わなかったし、つきあっていた彼にも習慣がなかった。
「なんだ、知ってるんだ。留学ってどこに行ってたの?」
「イギリス。でも、体壊して帰ってきちゃった」
「じゃあ英語わかるね。俺は小さいころから母親の海外転勤にくっついてあちこちに住んでて、それで覚えたって感じなんだけど」
「お母さんの転勤?」
「あ、うち母子家庭だからさ。母親は外資系の投資銀行で働いてる。今はシンガポールに住んでる」
「ふうん。両親、離婚したの?」
「いや。父親は最初からいない。って言うか、精子バンクから優秀なのを買ったらしいよ。あれって目の色も人種も学歴も全部選べるから、俺の出来が思ったより悪いのが母親としては納得できないらしいけどね」
「ふうん」
「それ、口癖? ふうんって」
「いや。すごい話だなと思って。そういうのってどんな感じなのかなぁとか考えちゃった」
「別に何も感じないけどね。たぶん一人っ子みたいなもんじゃない? 兄弟が最初からいなかったらさ、別に寂しいとか兄弟欲しいとかそんなに思わないよね。それと一緒だよ」
「ふうん」
「やっぱり口癖でしょ、それ」
 わたしたちはなんとなく笑った。
「ところでハーブっていうのは大麻の代替品ってこと?」
「まぁね。でもいろいろあるんだ。普通はいい感じになるだけなんだけど、ものによっては幻覚を見たりする。そのへんで売ってるようなのは、実際はハーブって言っても、ハーブでもなんでもない、ケミカルなもんだから」
「じゃあそれって危ないんじゃないの」
「いい感じになるだけのやつは別に危なくないけどね。幻覚を見るようなのは誰かがついてないとちょっと危ないかな。ハーブやるようなやつって大抵いろんなのをチャンポンするからさ、余計に怖いんだ。混ぜられちゃうとどんな飛び方するかわかんないし。だからもう、そういうわけわかんないことしそうな奴には、最近はあまり売らないことにしたんだけどさ」
 宇宙人が煙草に火をつけた。良く考えたらしばらく吸っていないなあと思って、わたしも一本もらった。
「とにかく、ものすごく体に悪そうだね、それ」
 わたしはゆっくりと煙を吐き出した。
「まあね。俺もあれこれ実験しているうちに体を壊しちゃって、入院までしちゃったもんな。体に悪いことは確かだよ。そろそろ包括規制されそうだし、金もそれなりに貯まったし、足を洗おうと思ってるところなんだけどさ」
 食事が済むと、宇宙人が通っている店があるというので、ファミレスを出てバスで三軒茶屋まで行った。そこは地下にある小さなクラブだった。一応フロアがあって踊れるようにはなっているけれど、二十人くらいしか入れなさそうだった。
 宇宙人は年配の黒人男性としばらくしゃべっていた。ここの店長のようだった。まだ早い時間で客はわたしたちしかいなかった。ハイネケンをもらって二杯くらい飲むと少しいい気分になってきた。わたしも黒人店長と英語で他愛のない話をした。
 店長はテランスという名前で、デンバーから来た、と自己紹介した。ボクサーか作家になりたかったけれど、どちらもダメだったので日本に来た、マイク・タイソンとサリンジャーが好きだ、というので、どちらもすごく有名人だね、と返すと、そうだな俺は有名になりたかっただけかもしれないと笑っていた。この人は初めての客にはいつも同じ話をするのかもしれないとなんとなく思った。
 そのうちに宇宙人がDJブースに入ってレコードをかけた。古そうだけど、なかなか素敵な音楽が流れてきた。とてもシンプルで柔らかいけれど軽くない、大人の音楽だと思った。男性ボーカルもクールだった。マーヴィン・ゲイに似ているけれど、あれほど情緒的じゃない。こっちのほうが好みだなと思った。グラスを磨いているテランスに音楽のことを尋ねると、これは『ウィリアム・デヴォーン』だ、なかなかいいだろう、という答えが返ってきた。
「俺があいつに教えてやったんだ。あいつは若くて何も知らないからな。最初にこの店に来たときは、DJになりたいって言っていた。だから古い曲もたくさん聞かせて勉強させたんだ」
 ふうん、と頷きながらわたしはDJブースにいる宇宙人を見つめた。なんだか急に切ないような、感傷的な気持ちになったのは、たぶん音楽のせいかもしれなかった。
「この曲のタイトルは、『あなたが手に入れたものに感謝しましょう』っていうんだ。よく聞いてみなよ、いいこと歌ってるぜ」
「へえ」
 ジン・バックをわたしの目の前に置きながらテランスが言った。歌詞を聞き取ろうと、わたしは耳を澄ませた。

『君たちはキャデラックを所有できないかもしれないけれど
上手くやっていけることを忘れないで
自分たちがすでに手に入れたものに感謝しなさい』

「テランスは、女を連れてきたらこれを回せっていうんだ、いっつも」
 いつのまにか宇宙人が隣に戻ってきていた。
「すでに手に入れたものに感謝しなさい、って意味で?」
「そう。他にもいい男はたくさんいるだろうけど、今夜は俺でいいじゃんって意味」
わたしは思わず笑ってしまった。
「でもさ、ほんとうれしいよ、連絡くれて。俺、入院してしばらくずっと女っ気のない生活していたからさ、昨日は絶対に誰か捕まえてやろうと思ってたんだ。そんなところに、すごいタイプの子が出て来ちゃったからこれはもう行くしかないと思ってさ」
「あはは。ほんとは誰でも良かったくせに口が上手いよね。どうせしょっちゅう、いろんな女の子をここに連れて来てるんでしょ?」
「妬ける?」
「別に」
「でもさ、本当にうれしいんだよ。だってさ、こういうことって簡単でいいし、むしろ簡単なほうがいいでしょ。そう思わない?」
 そうかもしれない。わたしは笑いながらジン・バックを喉に流し込んだ。そのときふと、宇宙人の顔が近づいてきて、キスをしてしまった。昨日も思ったけれど、宇宙人はキスが上手い。テランスは少し離れた場所で知らん顔をしていた。

 結局二時間くらい、テランスの店で過ごしただろうか。客がちらほらと入りだした頃、宇宙人がテランスに何かを渡し、テランスは宇宙人に封筒を寄越した。宇宙人は受け取ると立ち上がり、わたしを促した。
「そろそろ行こう」
 店を出ると、宇宙人が封筒を無理やり折りたたんでポケットに仕舞い込んだ。ちらりと見えた封筒の中身はお金だった。それもたぶん、かなりの金額だった。
「すごいね。どうしたの、それ」
「あそこにはまとめて卸してるんだ。俺、最近は外国人しか相手にしないことにしてるからさ。ショップもネット販売もシャットアウトしてる。もう、知り合いにしか売らない。ヤクザに見つかると面倒なんだ。商品がバッティングするから気に入らないってこともあるし、勝手に自分たちのシマで商売しやがって、ってこともあるし。そんなこんなで、しばらく雲隠れするのに金がいるんだよなあ」
「えっ、それって大変なことじゃない? お金かあ、ちょっとならあげられるけど、わたしも貯金とかあまりしてなくて」
わたしがそう言うと宇宙人は笑った。
「ありがとう。君、いい人だね。でも大丈夫、当てはあるんだ、あまり心配しないで。せっかく溜めた金に手をつけたくないだけだからさ」
 しばらく歩いて、もう一軒の店に入った。そこは住宅街の中の一軒家で、静かな雰囲気のワインバーだった。
「ここ、食べるものが美味いんだ。何か頼んでみる?」
店長は日本人で、奥にいる白人シェフと二人でやっている店のようだった。見ていると二人はとても仲が良く、どうやらゲイカップルらしいとわかった。
 お腹はそんなに空いていなかったけれど、せっかくなのでキャベツのバーニャカウダを頼んでみた。あとはスパークリングワインのいいのが入っているというので、それをもらうことにした。
 白人のシェフが英語で話しかけてくる。もともと宇宙人と知り合いなのはどうやらこっちの男のようだった。話してみると、彼はオーストラリア人だった。名前はコナーで、オーストラリア人だけど、イタリア料理のシェフであるらしい。料理もスパークリングワインもとてもおいしかった。
 食べやすい大きさに切ってある、軽くグリルしたキャベツがとても甘くて、バーニャカウダソースにつけて食べると、なんだかやたらと幸せな気分になってしまった。宇宙人はもともと小食らしく、食べるものにはほとんど手をつけていなかったけれど、わたしが食べ尽くしそうになっていたキャベツを最後にひとくちだけ食べた。
「こいつとはバリ島で知り合ったんだ。一か月くらいずっと一緒にいたよ」
コ ナーが宇宙人を差し、にこにこしながら言う。
「こいつは小さいけれど魔法使いみたいな男だ。俺をとんでもないところへ連れて行ってくれた。どこだと思う? 宇宙だ。こいつのオリジナルレシピは本当にすごい。大麻なんかよりずっといい」
「オリジナルレシピ?」
「こいつが作るのは普通のハーブだけじゃないんだ。次々、新しいものを作る。とにかく、研究熱心なやつなんだ。はっきり言って、天才だと思うぜ俺は」
「でも体を壊しちゃったんだよ、コナー。俺はもう、足を洗うことにする。入院したのは知ってるだろ。俺のハーブはこれで最後だから、無駄遣いするなよ、あと、やりすぎるなよ。恋人がいるからもう大丈夫だろ?」
 宇宙人がコナーに紙袋を手渡した。コナーは中をのぞくとうなずいて、奥に戻って封筒を持ってきた。けっこう厚みがあった。
「ありがとう、助かるよ」
「金は前の分も入ってる。あとの残りは餞別だ。しばらくどこかへ行ってくるんだろ?」
「まあね、たぶん」
 宇宙人は封筒を持って立ち上がった。少し怒ったような表情だったので、不思議だった。
「じゃ、行こう」
 外に出ると、住宅街の中を歩いた。夜だしあまり目印もないので、わたしはどこをどう通っているのかよくわからなかった。
「ねえ、どこかに行くの?」
「どこかって?」
「どこか遠くってこと。雲隠れするんでしょ」
「ああ、そのことか。さっきも言ったけど、俺は今学校も行ってないし、母親のところに行くのも気が進まないしさ。だからしばらくコペンハーゲンにでも行って来ようと思って」
「コペンハーゲン?」
「そう。コペンハーゲンでテントと寝袋を買って、しばらくのんびりしてくるよ。あっちには友達もいるし。君も遊びに来ない?」
「でも、仕事があるから」
「まぁ普通はそうだよな」
 宇宙人は笑った。なんだかちょっと寂しくなった気がした。
「じゃ、わたしそろそろ帰るね、電車無くなっちゃうし。楽しかった、ありがとう」
 今日はもういいかな、と思った。
 宇宙人がわたしを見た。目の中を覗きこまれた感じがした。
「たぶん今、帰らない方がいいと思う。もうしばらく俺といた方がいい」
「どうして?」
「さっき食べたキャベツ、ちょっと甘かったろ。ピーナッツの香りがして。俺も最後にちょっと食べて気が付いたんだけど」
「うん、少し甘かったかな。おいしかったよ」
 宇宙人は舌打ちした。
「だよなあ。まったくあいつ、頼みもしねえのに余計なことしやがって。サービスのつもりかよ」
「なんのこと?」
「『スペースウォーク』をキャベツにかけられた。君、ずいぶんあれを食べてた」
「何その、『スペースウォーク』って」
「前に、俺がブレンドした幻覚剤でさ…。ハーブの状態にして売ったこともあるけど、もとは粉薬だから食べるものにかけてもいいんだ。ショップに卸したこともあったんだけど、危険なんで引っ込めたんだ。もう作ってない。材料もなかなか手に入らないしね。多幸感があるだけのようなやつとは全然ものが違うんだ。俺の手元にも残っていないのに、コナーのところにはまだあったんだな…。たぶん、量は大したことないはずだから、とりあえず様子を見させて。どう、大丈夫? なんともない?」
 宇宙人の少し慌てた様子に、急に不安になった。
「まだよくわからないけど、そんなの困るよ。でも昨日だってわたしに何か飲ませたでしょ、実は今日も仕組んだんじゃないの? 嘘つき」
「昨日のはただのラブドラッグだよ。あんなの別になんてことないよ。ずいぶん酒が入ってるなあと思ったから、ついでにダメ押しでドーパミンを増やしてあげただけだよ。気持ち良かっただろ?」
「何なのよそれ」
 そこまで言いかけて、急に頭の中がぐるんと回った。脳みそがすべったような感じだ。急に周囲が歪んで見えるようになった。それと同時に、道路脇の看板や信号機が妙にキラキラし始めた。見上げると空は満天の星だった。東京でこんな空は見たことがなかった。 
「わあ、きれい」
 思わず言ってしまった。
「やっぱり入っちゃったな。どう、きれいなの? どんな風に?」
 側で声が聞こえる。でも姿は見えない。自分がどこにいるのかわからなくなった。上下もよくわからない。それなのに不思議と恐怖は感じなかった。
「うん、すごくきれい。キラキラしてる。まるでクリスマスみたい」
「それは良かった。それじゃあ、僕のUFOにでも行こうか」
 周囲の音にエコーがかかって聞こえ始めた。UFO、UFO、UFO、こだましている。わたしは思わず聞き返してしまった。
「UFO? どうして?」
「『スペースウォーク』が効いていれば宇宙に行けるんだ。コナーがそう言ってただろ? せっかくだから、これから君を宇宙に連れていってあげるよ」
「ねえ、あなたは宇宙人なの?」
 わたしがそう言うと、エコーがかかった笑い声があちこちから飛んできた。
「そうだよ。宇宙人なんだ。だからUFOに住んでるんだ」
 いろんな方向から声がするので必死に見回すと、全身が光り輝いている宇宙人が側にいた。何度まばたきしても、変わらなかった。
 そんなことをしているうちに、急に暖かい気持ちが流れ込んできた。まるで滝行を受けているくらいに強い幸福感だった。こんな気持ちは生まれて初めてで、どうしたらいいかわからなくなっていると、次第に頭蓋骨の中が痒くなってきた。わたしは頭を掻き毟った。
「痒い、痒い」
「大丈夫だよ、落ち着いて。大丈夫だ。ゆっくり目を開けるんだ」
 自分が目をつぶっている、という感覚はなかったのだけれど、やってみたら目を開けることができた。変な感じだった。現実が何層にも重なっているような気がした。今わたしは本当に目をあけているのだろうか? 
 いつの間にかわたしはベンチに座っていた。目の前には広い芝生、そして向こう側には深い森があった。ここはどこだろう? さっきはこんなところにいなかったはずだけれど。なんだか見覚えのある景色だった。子供のころから良く知っている場所のような。
「砧公園だ」 
 わたしはつぶやいた。
 砧公園というのは世田谷区にある大きな公園で、元ゴルフ場だったというだけあってかなり広い。幼いころからしょっちゅう来ているので良く知っている場所だ。わたしは少し安心した。でもさっきまで三軒茶屋にいたはずなのに、どうしてこんなに早く砧公園に来ることができたのだろう?
「行こう」
 宇宙人に促されてわたしは立ち上がり、歩き出した。周囲には誰もいない。二人だけだ。宇宙人は芝生を通り抜け、橋を渡り、森の奥へとわたしを案内した。橋の上で、急に大きな水音に包まれて驚いた。川の流れる音がやたらときれいだった。森の奥には小さい祠があった。わたしはしゃがんで手を合わせ祈った。
「何してるの」
「こんなところにいきなり神様がいるんだもの」
「そうか、神様か、ふうん」
 宇宙人は先に進みたい様子だったけれど、わたしは構わずしゃがみこんでいた。すると不意に祠の扉が開き、黄金色の金魚が出てきた。金魚は空中を泳ぐようにふわりと出てきたかと思うと瞬く間に巨大化し、こちらが目をあけていられないほどの強い光を放ち始めた。周囲の木々がうれしそうに揺れ始め、地鳴りがした。金魚がわたしを正面から見た。
「こんばんは」
 金魚が口をぱくぱくさせてしゃべった。
「こんばんは」
 わたしは見上げながら答えた。
「どうでしょう。もう、わかりましたか?」
 金魚にそう言われた瞬間、「あ、わかった」と思った。でもわたしが「わかった」と思ったことは世界は小さな粒からできているということだけだった。でも体中がそれを喜んでいた。
「わかりましたぁ」
 わたしは大きな声で言った。金魚はひれをばたばたさせながら笑っていた。魚が笑うところを見たのは初めてだった。
「もう、行こうよ」
 宇宙人の呆れたような声が聞こえた。腕を取られて、わたしは再び歩き出した。
 間もなく、林の中に古いアパートがポツンと一棟だけ建っているのが見えた。
「着いたよ」
「ねえ、どこにUFOがあるのよ。UFOはどこよ」
「あれ? UFOに見えない? そっか、じゃあここはどこ?」
「砧公園でしょ」
「そっか、なるほど。まあいいや、入るよ」
「どこに?」
「俺の隠れ家その一、かな」
「嘘つき、あなたは宇宙人じゃなかったの?」
「嘘じゃない、宇宙人だよ。とにかく、中に入ろう。これから宇宙へ連れて行ってあげるんだからさ」
 仕方なくボロアパートの階段を上がった。部屋は一番奥で、あちこち外壁がはがれており、扉の表面もがさがさになって毛羽立っていた。一体何年前のアパートなのだろうか。取り壊し寸前のような雰囲気だった。
「嫌よ、こんなところ」
「贅沢言うなよ。しょうがないだろ、隠れ家なんだから。まぁでも、こことも今夜でおさらばしようと思ってるんだけどさ」
 背中を押されるようにして中に入ると、強い匂いに包まれた。
「ねえ、なんか臭いよ。頭、痛くなる」
「ここは作業場にしてたからな。匂いがブレンドされちゃって余計ひどくなってるんだ。こういうときにはいい方法があるんだ、とりあえずそこに座って」
 穴の開いた合皮の安っぽいラブソファに腰かけると、すぐにだるくなりわたしは寝転んだ。宇宙人は棚に置いてあった皿を手元に引き寄せ、お香のようなものを置くと火をつけた。
「これで少しましになるだろう」
「そんなことない、やっぱり苦しいよ、匂いが強すぎる」
「大丈夫、だんだん良くなってくるから。ゆっくり、呼吸して」
何度か深呼吸すると、関節がゆるく外れたような感じになり、わたしはソファに沈み込んだ。悪い気分じゃなかった。
「音楽でもかけようか」
 薄く流れ始めたのはピアノの音だった。優しさと諦めが同居しているような。
「バッドに入らないためだよ。音楽を聴くというより、他の音を遮断するためだ。どうせ間もなく聞こえなくなるから」
 ラヴェル、プーランク、サティ、フォーレ。どこかで聞いたことがあるような気がして、頭の中にフランスの作曲家が何人か浮かんだけれど、結局誰なのかよくわからなかった。そんなことを考えているうちに頭の中がゆらゆらと揺れ出して、後頭部から何かがぽかんと抜けおちた感じがした。
 宇宙人がラブソファに移動してきて、わたしの上に乗ってゆっくりとキスを始めると、次第に音楽が遠くなっていった。それと同時に、周囲がどんどん暗くなっていき、何も見えなくなってしまった。
 そして体の感覚が増幅されてきた。皮膚に少し触れられただけでもあちこちに快感が走る。キスをしているだけなのに、子宮のあたりがズキズキと破裂しそうなくらい興奮した。 
 目を開けていても、何も見えない。不安なはずなのだけれど、そのうちにすうっと、不安と共に自分そのものが消えていくのがわかった。自分が消滅していくことが、こんなに気持ちいいことだなんて知らなかった。
 ふと気が付くとわたしは大きな穴の淵に立っていた。穴は巨木のそばにあった。そこは森の中でとても静かだった。直径五メートルほど、深さはもっとあるだろう。暗いので穴の底は見えない。わたしはここに入りたい、いつかきっと入るだろう、と思った。でもなぜかわたしの体には巨木から伸びてきている蔓がしっかりと巻き付いていて、そこから先には行かれない。
「入りたい。ねえ、埋めて」
「ん? 埋める?」
 宇宙人の声がした。側には誰もいないのに。
「そう。早く埋めて」
「そっか、埋めて欲しいのか。まぁでも、もうちょっと待ってよ。すごく深く埋めてあげるからさ」
 わたしは早く穴に入りたくて仕方なかった。
「ねえ、早く。お願い」
「せっかちだな、もう我慢できないの?」
「うん」
 わたしは頷いた。
「お願い。早く埋めてください」
 だって目の前に穴があるのだ。わたしは体に絡みついた蔓を外そうともがきながら、深い穴の奥だけを見つめていた。巨木から派生してきた蔓はとても強くて、わたしの力では外すことができない。そんなことをしているうちに、木の枝が伸びてきた。その枝には、白みがかった青の、丸みを帯びた小さな葉がたくさんついていた。なんとなくユーカリの葉に似ていた。それらの葉がわたしの体中を撫で、敏感な場所にぴたりと吸いついてくる。唇に、首筋に、乳房に。そしてさらに別の枝が伸びてくると、わたしのヴァギナのあたりを探るように撫で、奥にまで入り込んでくるのだった。その上、乳首に細い枝が絡みつき、きゅうっと締め付けられると、敏感になっている体がびくびく震えて、口の端から涎が垂れてきた。
「じゃあ、入れるよ」
 宇宙人の声がして、太い木の枝がずぶずぶとわたしの中に入り込んできた。とても大きくて太い枝で、喉元まで串刺しにされてしまった。すると体に巻き付いていた蔓がぱらりと離れ、わたしはあっという間に穴の中に落っこちてしまった。
「どう、気持ちいい?」
 返事なんかできない。わたしは喘ぎながら穴の中に落ちていっている最中だった。どこまで落ちるのか、いくら目を開けても何も見えない。闇が広がっていた。
 そのときふと、ブラックホール? と思った。すると突然、体に遠心力がかかった感じになってふっ飛ばされた。そしてそのまま、ものすごいスピードでわたしは飛び始めた。
「ワープ?」
 思わずそうつぶやくと、
「そっか今ワープしてるんだ」
と、どこからか宇宙人の声が聞こえた。
「ううん違う、スターツアーズ」
 そう答えながら、わたしって発想が貧困なのかな、と頭のどこかで考えた。周りの風景は、ディズニーランドのアトラクション『スターツアーズ』でワープしているときにそっくりだった。
「スターツアーズか。なるほど、じゃあ今ちゃんと宇宙にいるんだね、それは良かった」
 宇宙人が笑った。
 ワープが終わった。すると目の前には、宇宙が広がっていた。それはやはり『スターツアーズ』の光景にそっくりだった。
 わたしのイメージできる宇宙はこれ止まりってことなのかな。目の前の風景に興奮しながらも、幻覚で埋め尽くされた脳みその、ほんの少し残った一部分でわたしはそう思った。
 そういえば先月、和真とディズニーランドに行ったばかりだ。だからこんなものを見るのだろうか。
 ああでもそんなことよりも。帰り道電車の中で、「ところで結婚したらどこに住む?」と言われたときに感じたちょっとした違和感は、あれはなんだったのだろう。現実感がまるでなかった。
 わたしは目を開けた。でも何度目を開けても、本当に開けることはできなかった。ここは宇宙だ。わたしは宇宙遊泳中であるらしい。
「今はどこにいるの?」
 宇宙人の声がした。気が付くと、両足を宇宙人の肩にかけて、体をくの字に折り曲げられたような形で深く貫かれていた。気持ちいい。そう思った途端、足を踏み外したような感覚に襲われて、落ちるのかと思ったら、今度は急上昇を始めた。
「きゃっ、ぶつかる」
 アパートの低い天井に激突したと思った瞬間、通り抜けていた。そのままどんどん上に行く。電信柱、高い木、すべてが自分よりも下になっていく。ビル、高層マンション、すべてを追い抜いてひたすらまっすぐ真上へ。恐ろしさのあまり声も出ない。東京タワーもスカイツリーも追い越した。ん? おかしいな、ここ砧公園じゃなかったっけ。そんなことはどうでもいい、一体どうなるの、と思ったら水の中へ入ってしまった。水、と言ってもまるで片栗粉を溶かしたような、ちょっととろみのある水。ぐちゅ。ぐちゅ。ぐちゅ。耳元で、土砂降りのときに泥の中を歩くような音がする。足がとても重い。踏み抜いて歩くほど、どんどん泥の中に沈んでいく。ダメだ苦しいよ、もうすぐ頭まで沈んでしまう、と思っているうちにとうとう沈んでしまった。
 そうして気が付いた。水音がするのは外側じゃない、内側だ。体の中で水音がする、わたしの皮袋は水でいっぱいだ。もう今にも溢れそうだ。
「もうダメ」
「何がダメなの」
「出ちゃう、たぶんおしっこ」
「それ、おしっこじゃないんじゃないかなあ。ま、どっちにしてもここで出しちゃっていいよ」
「でも、汚しちゃう」
「いいよ、汚れたって」
 体の外も水、内側も水、それを皮一枚で隔てているだけだと思った。どこかに穴をあけることさえできれば、わたしは水に還ることができるのではないか。
「もっと。もっとして。お願い」
「じゃあ、上になってくれる?」
 そう言われて上になり跨ると、宇宙人は枝のついた丸太になった。わたしは無言のまま丸太から飛び出た太い枝に向かって腰をゆっくりと落とし、上下に動かし始めた。
「すごくいいよ。俺、もう持たないかも」
 丸太がしゃべっているけれど、もうそんなに気にならなかった。笑う金魚もいるし、しゃべる丸太もあるのだ。気が付くと涙が出ていて、どうやら体が破け始めたと感じたところで限界がきた。激しく痙攣し、体の奥に穴が開き水が流れ出ていく。内臓も脳みそもすべて皮袋から出て行った。宇宙人がわたしの内臓の中に埋まりながら、荒い息を吐いていた。わたしは体を震わせながら、その様子をぼんやりと見ていた。


 意識が戻った時に最初に目に入ってきたのは真上に伸びていた木の枝だった。ちょうど夜が明けていく瞬間で、若葉の伸びてゆく先端に日が射し、緑地の木々の間を、光は抜け道を探すように広がっていった。
 わたしが横になっていたのはベンチだった。ゆっくりと体を起こすと、足元に置いてあったバッグを拾った。
 見覚えのある風景だった。目線の先にある建物は世田谷美術館だ。砧公園の中にいるということがそれでわかった。わたしの家はここから歩いて十五分だ。
 まだぼんやりしていた。昨夜のことが、どこまでが本当で、どこからが本当じゃないのか、よくわからなかった。
 立ち上がると、ベンチのすぐ近くを通っているサイクリングロードに出た。少し足がふらつく。夜が明けた瞬間だからまだ人の姿はほとんど見えないけれど、もう少し経てばジョギングの人たちがたくさん出てくるだろう。
サイクリングロードの先の方に、人影が見えた。わたしが帰る方向とは逆のほうへゆっくりと歩き去っていく。なんだか気になって、近眼の目を細めてよく見てみた。青いTシャツにジーンズの宇宙人だった。わたしが見ていたら気が付いて、振り向いて一回だけ手を振ってくれた。わたしも小さく手を振った。

 宇宙人の話はそれっきりだ。名前を聞かなかったので宇宙人とし
か説明のしようがない。
 しばらくして電話をしてみたら「現在使われておりません」の音声が流れた。当たり前だけれど砧公園の中にアパートは建っていないし、三軒茶屋で行った店はどこにあるのかわからなかった。
 結局、あのあとすぐに会社をやめて、和真とも別れた。言いだしたときにはもう完全に決めた後だったから、それほど揉めなかった。いろんな意味でわたしは和真にふさわしくない。もっと早くこうするべきだったと思った。和真はやはり十分に大人で、とてもいい人だった。
 その後、留学していたときの知り合いが日本に帰ってきて、その人の伝手で私立の女子高校で英語の教員をすることになった。中程度の学力の、どこかのんびりした高校で、わたしには向いていた。こんな世界もあったのかと思った。刺激はないけれど、そんなものはもういらなかった。
しばらくして、アルジェリア人の彼に女子校の教員になったことをメールで知らせたら、とても喜んでくれた。なんとなく心配されているような気がしていたので、安心してもらえて良かった、と思った。
 たまに、宇宙人は今頃何をしているのかと思うことがある。わたしが聞いた話はすべて嘘で、案外本当に宇宙人だったのかもしれないとさえ思う。宇宙人は宇宙に帰ったのだろうか。宇宙というのは空の上にあるのだろうか。
 フラッシュバックは特にないけれど、 あれから少し変わったことと言えば、たまに空気の中の塵がすべて消えてなくなったかのように、世界がやたらときれいに見える時がある。そんなときは大抵、耳が聞こえなくなる。だから、ただ見つめている。  それと、金魚を見かけるとつい話しかけたくなったりする。もちろん、そんなことはしないけれど。

                                                           おわり


ブログ版あとがき

お気に入りの作品です。なんとか最後まで書けて良かった、と思います。
もともとは「せんだい文学塾」の講座のために書いた作品です。内容がハードになりそうだったので、このまま出して良いものか不安でしたが、結局最終的に、山形の「小説家ライター講座」で拾っていただき、作家の花村萬月先生に読んでいただくことができました。ほんとそれだけで満足、目的を果たした、と思いました。花村先生のファンだったので。
読んでもらえて、良かったねえ、と作品をナデナデしてあげました。
直そうかなと思って引っ込めていたんですが日々に流され全然手がつけられないので、ブログに出しておきます。
誰かに読んでもらえたら。で、もしも気に入ってもらえたら。それだけで十分です。

ところでこの作品は今思うと地名が多いなと思いますが、
新宿、三軒茶屋、砧公園、馬事公苑、用賀、
小さい子を抱えながら育児していた思い出の場所ばかり。
調子良くかけたのはきっとそのせいだな^^
今は仙台に住んでますけど、子供たちが小さかった頃は東京にいたので、
砧公園は近かったのでベビーカー押して良く散歩に行ってましたし、馬事公苑では幼稚園の行事があったりなど。
この小説にあるような不健康な感じじゃなくって、すごく平和な感じで住んでいました☆(当たり前か^^)
懐かしいなー

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