(短編小説)マリアライフ

「マリアライフ」
                              乃村寧音(チアーヌ)

(梗概)

 マリアライフ 梗概


 二年前に妻を自殺で亡くした男が主人公。男はそれ以来、女に欲望を感じなくなってしまった。
 ある冬の夜、男はホテルのバーで好きなタイプの美しい女に出会う。
 久しぶりに欲望を感じ、口説き始めたところその女は「自分には性幻想を見せる特殊な力がある」などと妙なことを言い出した。
 普段は、死姦やハードSMやロリコンなどの、変態の性幻想をリアルに再現してやり、それでお金をもらって生活しているらしい。
男は半信半疑ながらしたたかに酔っぱらい、女とホテルの部屋に行く。
 そこで男は信じられない光景を見ることになる。
 そこまでは良かったのだが ….。
 幻想の世界が、現実にはみ出してきて、男は戸惑う。


 




 俺が新宿のホテルに入ったのは夜の十時過ぎだった。中に行きつけのバーがあるのだ。年配のしっかりしたバーテンダーが一人いて、それでほとんど事足りているくらいの大きさの、小さくて静かな店だ。
 廊下に敷き詰めてある毛足の長いアイボリー色の絨毯を踏みながら歩き、バーの前に到着すると、重厚な木製のドアをゆっくりと開けた。シルバーを基調とした色合いの、品の良いクリスマスツリーが飾られていた。
(もうそんな季節か …)
 週の半ばだったこともあり店は空いていた。バーテンダーがのんびりとグラスを磨いていた。
 カウンターの中程に腰掛け、ウィスキーのダブルをロックでもらった。
俺は今年で三十八歳になる。二年前に妻を亡くし、現在独り身だ。四歳の娘が一人いて、同じ敷地内の別棟に住む母親が通いのベビーシッターと二人で面倒をみてくれている。
 電気メーカーの研究所に勤める普通の会社員だが、世田谷に親の代から譲り受けた賃貸マンションを三棟ほど所有しており生活には余裕がある。母親に言わせれば昔はもっと羽振りが良かったらしいのだが、これでも相続のとき友人の税理士に相談して上手くやったほうだと思う。不満は無い。
 バーの暗闇に目が慣れてくると、カウンターの端に女が一人で座っているのに気がついた。その女はなぜか目を引いた。
 黒いドレスを着ており、長い髪を背中の中程まで垂らしていた。肌の色は抜けるように白く、顔や首だけでなくドレスの袖から見える手首までがまるで薄ぼんやりと発光しているように見えた。ほっそりとしているのに胸の辺りは形良く脹らみ、やや肉感的でもあった。
 女は両手でグラスを持ち、ぼんやりとしている風だ。
ハイドンのピアノソナタ静かに流れている。この店のBGMはいつもクラシック音楽で、大抵は古典派のピアノ曲が流れている。
 ハイドンのピアノソナタは、生前自宅でピアノ教室を開いていた妻が、よく生徒に宿題として与えていた。きっと技術的にさして難しいものでなかったのだろう。少し上達すれば小学生でも弾くことが出来たようだ。
 女が飲み物のお替わりを注文した。
「ティツィアーノ下さい」
 そして、そのあとにひとりごとのように言った。
「ハイドンだったかしら」
 俺は女を見た。まるで発光しているかのような白い肌に、赤くほんの少し厚みのある唇。口紅をつけて赤いといよりは、肌が白いので赤く見えてしまうのだろう。
 バーテンダーがCDを持ってきて女にタイトルを見せていた。有線放送を流しているのではないらしい。
 俺はそれほどクラシック音楽に詳しいわけではない。時折家で聞く程度だ。妻が亡くなってからはその回数もめっきり減った。 
 もっとも、子供が小さいうちは仕方がないのかもしれない。家で良く流れる音楽は、娘の好きなアニメの主題歌や、幼稚園で流行っている曲や、たまにちょっと落ち着いたものがかかっていると思うとそれは娘がバレエの発表会で踊るためのポピュラークラシックだったりする。それはそれでいいのだが。
 視線がついつい女にいってしまう。こんなことはしばらく振りだ。
 妻が亡くなってから女と個人的な付き合いはしていないし、したいと思うような女もいなかった。
 女は、一言で言ってしまえばかなり好みのタイプだった。これまで、初めて会った知らない女をこんなに気に入ってしまったことなど無かった。
 昔好きだった誰かに似ている気もした。でもはっきりとは思い出せなかった。そういう気がするだけなのかもしれない。
 女は少し離れた席でカクテルを飲んでいる。時折グラスを唇に当て、じっくりと楽しんでいるようだ。黒くてしっとりした質感を思わせる髪は、女が動く度さらりと流れた。

 妻の死は晴天の霹靂だった。そうとしか言いようがない。二年前の冬に、自宅の敷地内の物置小屋のなかで、首を吊って死んでしまったのだ。見つけたのは俺だった。そのときすでに硬くなりかけていた妻の体を、下へおろし部屋まで運んだ。ずっしりと重かった。
 その日のことは何度も記憶を反芻したのでよく覚えている。朝九時頃目を覚ますと、隣で寝ているはずの妻がいなかった。日曜日だったので早く起きる必要がなかったのだ。  
 別に不思議には思わなかった。妻はとっくに起きて家事でもしているのだろうと思った。幼児は早起きだから休日とはいっても妻はそう遅くまで寝ていられないのが普通だった。
 二階の寝室から階下に降りていくと、二歳になっていた娘がリビングのベビーサークルの中で、おもちゃで遊んでいた。妻は見当たらなかった。別の部屋にいるのかと、少し大きな声で呼んでみたが返事はなかった。訳がわからなかった。それまで妻が娘を置いて断りもせず外出したことはなかった。二歳の幼児を、例えベビーサークルに入れておくにしても、一人で置いておくのは危険なことだ。妻が出かけるときは、休日であれば俺が預かり、平日ならばベビーシッターか同じ敷地の別棟で犬と暮らしている母親に見てもらったりしていた。
 家の中をあちこち探した。キッチンへ入ると、朝食の準備を途中までしていたらしいことがわかった。鍋に水がはられ、だしを取るための煮干しと細めの短冊に切った大根が入っていた。炊飯器のスイッチも入っており、ごはんが炊き上がっていた。グリルを覗くと鮭の切り身が入っていた。味噌汁が好きな俺のために、朝は和食になることが多かったのだ。
 何だか様子がおかしかった。虫の知らせだったのだろうか、胸がざわついた。
前日の夜、妻に変ったところなどなかった。たまたま早く帰宅しており、家族で和やかな夕食の席を囲み、そのあとは酒を飲んで寛いだ。十二時頃眠くなって来たので、テレビで映画を見ていた妻を置いて先に寝ることにした。おやすみの挨拶をして二階に上がろうとすると、なぜか妻が階段の下まで俺を追いかけてきた。
「あなた、明日はお休みよね」
「ああ、そうだよ」
 今思えば変わったことと言えばあれくらいだ。妻は頷いてすぐにリビングに戻って行った。それが、生きている妻を見た最後になってしまったのだけれど、そのときの顔をなぜかはっきり覚えており、忘れられない。
 妻の顔は、なぜかその時薄黒く見えた。でも照明の加減だと思ったし、実際そうだったと思う。
 
家中探しても妻がいないと気が付くと、俺は同じ敷地内に住む母親に連絡し、妻が何か言っていなかったか尋ねてみた。母親も何も聞いていなかった。室内で飼っているゴールデンレトリバー犬にも特に変った様子は見られなかったという話だった。もっともその犬は母の犬で、犬嫌いの妻は寄り付きもしなかったのだが。
 妻の実家や友人へ電話することも考えたが様子を見ることにした。夕方まで待って戻って来ないようなら連絡を取ろうと決めた。妻は一人で何処かへ行きたくなったのかも知れないとも考えてみた。
 でも妻の外出着やコート、常に持ち歩いているバッグ、財布、携帯電話などはすべて家の中にあった。寒い季節なのにコートも着ずに外に出るなんて考えられなかった。
物置小屋に向かったのは最後だった。昔は農機具が入っていたと聞いているが、俺が物心ついた頃には殆ど空になっていた。潰しても良かったのだけれど今となっては珍しくなった古い道具類などが少しあり、とりあえず放っておいていた。
 敷地内にある建物はとりあえず全部見ておこうと思った。
 その扉を開ける前の気持ちをなぜか今でも覚えている。
 ここにはいないといいなあ、と思ったのだ。胸をざわざわさせながら。あれはおそらく予感というものだったろう。
 小屋の扉を開けると、すぐにそれが目の中にどんと入ってきた。
 こちらに背を向けるようにして、ぶら下がる妻。
 最初に見たのが正面じゃなくてまだ良かったのかもしれない。

 救急車を呼んだつもりだったのだが警察が来た。医者も勝手にやって来た。警察官は妻を見て、
「自殺ですねえ」
とあっさり言った。
 気が動転していた俺はその時初めて、そうか事件ということも考えられたのだなと思った。もう定年間近の年齢に見える落ち着いた物腰の警察官は、俺に向かって妻の首の辺りを指し示し、
「ほら一個しか跡がないでしょう、これが締められてから吊るされたりするとぶれてるんで一目瞭然なんですよ。それに落ち着いた顔されてますしねえ、覚悟の自殺でしょうねえ」
などと淡々と言った。
 俺はただ呆然と話を聞いているだけだった。
 家中を探してみたが遺書はなかった。
 妻は日記などもつけていなかった。
 どうして妻が自殺などしたのか、理由は全く判らなかった。今もわからない。

 妻とは友人の紹介で知り合って、一年程の交際の後すんなりと結婚した。お見合いに近い形での出会いで、双方の条件に適った結婚だった。
 妻は声楽や器楽の伴奏者としてはある程度の評価をもらっていたらしく、そちらの方で活躍するピアニストだった。妻はピアノを続けたいと言っていて、俺にも異存はなかった。もちろん条件に合っていたからだけではなく、妻のことを気に入って好きになったからこそ結婚したのだ。俺たちは相性がよく、上手くいっていたと思う。 
 でも俺は相性の良い妻だけでは足りなかった。それは妻のせいではなくて、酒もほどほどでギャンブルもやらない代わり、女に関しては少々だらしないところがあったのだ。
 結婚前から常に妻以外の女がいた。相手は何度か変わったが、女が切れたことはなかった。それらの女は妻とはまるで別だった。比べたことはないし、比べるような対象でもなかった。女は世の中にいくらでもいるし、ちょっと寝てみたくなることだってある。俺は確かに遊んでいたが、妻に気取られるようなことは一度もなかったと思っていた。
 そうではなかったのだろうか。
 妻の死後、その時付き合いのあった女たちとはすべて手を切ってしまった。そのあとも個人的に付き合った女はひとりもいない。妻の死が、俺の女に対する欲望をすっかり冷やしてしまった気がする。
 物置小屋の中でぶらさがっていた妻を思い出すたび、俺は自分のしていたことを考えて
しまう。物置小屋は壊してしまった。今は跡形もない。
 
「ハイドンは好き。耳の中を、右から左へ抜けていっちゃう感じがするから」
 女がバーテンダーと話している。俺はぼんやりとその様子を眺めながら、改めて妻の死後自分が女をじっくり観察したことなどなかったことに気がついた。
 女の声は小さかったけれど、耳を澄ませば内容が聞き取れた。
ふと辺りを見渡した。他に客はいなかった。席もそれほど離れていない。頃合を見て声をかけてみようと思った。昔は良くやっていたことだ。
女とバーテンダーの話し声が途切れた。タイミングを見計らって、俺はさりげなく女に話しかけた。
「ハイドン、お好きなんですか?」
 女がゆっくりとこちらを向いた。少しとまどっているような感じだ。黒目がちの、大きな目だった。酒のせいなのか、ほんのりと潤んでいた。
「驚かせてすみません。話し声が耳に入ってしまったものですから」
 落ち着いた口調でそういうと、女は少し安心したようだった。正面から見ても、女は全く俺の好きな顔をしていた。こんなに好きな顔はこれまで見たことがなかったんじゃないかと思う程だった。
「ハイドンも好きですけど…そうですね、古典派の音楽はお酒を飲んでる時なんかによく聞くんです」
 女が答えた。いい声だ。俺の好きな声だ。小さいけれど良く響く、ほんのり甘い声。
「お酒を飲むときに …ですか? なるほど、いいかもしれませんね。あ、失礼、名乗りもせずに。藤木と申します」
「藤木さん…」
 女がゆっくりとつぶやいた。いくらか酔っているのかもしれない。
 隣の席に移っても構いませんか、と尋ねると女はうなずいた。俺は席を移動した。バーテンダーがさりげなくグラスを目の前にセットし直した。
「藤木さんも、クラシック音楽がお好きなんですか?」
「ええ、好きです。あまり詳しくありませんけどね」
「わたしも、そんなに詳しくありませんよ」
 女が微笑む。俺に対して悪い印象は持たなかったようだった。まぁでも俺は女に嫌われるタイプではないらしいので、こういうときに邪険にされたことなどほとんど無いのだが。
 自分で言うのもなんだが、見た目はまあまあ悪くないほうだ。涼しい顔をしていると言われるし、定期的にテニスと水泳に行き体を動かし、体形を引き締めることにしている。酒だって弱い方じゃない。女を口説くことには昔から抵抗はない。しかしこういうことも慣れで、しばらくしていないと少し勘が狂う気がする。
「この店には良く来られるんですか?」
「たまに」
「俺も時折寄ることがあるんですけど、これまではお会いしませんでしたね」
「そうですね」
 俺は考えながら言葉を選んでいく。女は何歳位だろうかと思う。二十代後半から三十代前半かなと踏んだ。ポイントは顎から首の線だ。いくら肌のきれいな女でも一番先に老いが来る場所だ。
 でも一体何をしている女なのだろうか。それは想像がつかなかった。
 黒いドレスはシンプルな形で襟ぐりが開いており、白く形の良い胸の一部がほんの少し露出していた。グレイの柔らかそうな薄いショールを肩にかけている。黒真珠のペンダントはダイヤが添えられておりとても品のいいデザインだった。揃いのピアスがさりげなくのぞいていた。ウェストがシェイプされたデザインだけれどスカート丈は長く、くるぶしまである。小さな足には黒いエナメルのハイヒールを履いていた。細く高い踵には真珠の飾りがついている。こんな華奢な靴は久しぶりに見た気がした。こんな靴を履いて、ちゃんと歩くことは可能なのだろうかと思うほどだった。
 その辺りまで考えていて、俺はふと気がついた。女は妙に薄着で、十二月だというのにコートも持っていない。コートはクロークへ預けてあるだけかもしれないが …それにしても足元の華奢なハイヒールは、どう考えても冬の街中を歩くような靴ではない。少なくとも、女は外から歩いてこの場所へ来たのではなさそうだった。車で来たのか、それともこのホテルでパーティでもあってそのあとここへ寄ったのか。または宿泊客かもしれない。女との当たり障りない会話のうちに、俺は一人考えを巡らせていた。
 水商売の女かもしれないが、それにしては受け答えがいまいち下手だし化粧が薄すぎる。それに服装の雰囲気が若干違うようだ。考えているうちにふと思い出した。死んだ妻の友人達に共通の雰囲気。それと似ていなくもないと。
「もしかして音楽をなさってるのでは?」
 そう問いかけると、女は首を横に振った。
「そうですか。あなたは音楽家じゃないとすると、何をしてる人かなあ。なんだか見当もつかないな」
 そういうと、女は笑った。
「どうしてそう見えたんでしょう」
「知り合いに音楽をしている女性がいるのですが雰囲気が似てるなあと。それでなんとなく」
「そうですね …以前は確かにヴァイオリンを弾いていたことがあります。今はもうほとんど手にする事もありませんけど。まだそんな雰囲気がするなんて、不思議なくらい」
 女はそう言うとバーテンダーにカクテルのお替りを頼んだ。俺もウィスキーのダブルを貰った。
「わたし実は今日もうだいぶ飲んでるんです。これで何杯目かしら」
「お強いんですね」
「そんなこともないんですけど…今日は仕事がちょっと遅くまでかかってしまって。まっすぐ家に帰るつもりだったんですけど、なんとなく …。一緒にいた人を撒いて来てしまったんです」
 女はやはり少し酔っているのかもしれない。俺という見知らぬ男への警戒心がだんだんほどけてきているのがわかる。
「遅くまで大変でしたね。なにかトラブルでも?」
「トラブルというほどのことじゃないんですけど、仕事がイヤになってしまって。いつものことなんですけどね」
 女は溜め息をついた。
「それじゃ大変だ」
 俺が言うと女は黙ってうなずき、グラスを唇に運んだ。やはり水商売かなと思った。嫌な客を撒いてきたのか。そう考えるのが自然だ。
「以前はオーケストラにいたんです。大したお給料は貰えなかったけれど、毎日が充実していたし、楽しかった」
 女が急に明るく言う。
「オーケストラにいたんですか。もしかして、俺も聞きに行ったことがあるかもしれないな」
 女が名の知れた楽団の名前を挙げた。そこで弾いていたのだという。結婚前に妻と聞きに行ったことのある楽団だった。そう言うと、
「ご結婚していらっしゃるんですね」
 女にそう言われ、俺は少し躊躇しながら答えた。
「いえ、妻は二年前に亡くなったんですよ」
「あ ...ごめんなさい」
 女は口を押さえて小さな声で言った。俺が笑いながらいえいえ大丈夫ですよ、と言っても女はしきりに済まながっていた。
俺は女を見つめているうち、不意にあることに気がついた。女が、一体誰に似ているのか。さっきまで思い出せなかったことを思い出した。女は、絵の中の女に良く似ていたのだ。誰の絵かはわからない。著名な画家の絵だと思うのだが、あまり絵に詳しくない俺には判別がつかない。それは亡くなった父の書庫にあった画集の中の絵で、聖母マリアを描いたものだった。
 子イエスを抱く母マリアの図。どこにでもあるといえばそんな感じの聖母子画。子供の頃、俺は妙にその絵が気に入り画集を開いては見ていたのだ。その絵の聖母マリアは、今思い返すとちょっと官能的だった。不謹慎かもしれないけれど。しかしそんなこと、今の今まですっかり忘れていた。
「本当にごめんなさい」
 女の声が聞こえ、我に返った。
「あ、ああ、ほんとに気にしないで下さいよ」
 俺がおどけながらいうと、女はようやく安心したようだった。気の良い女なのかもしれない。死んだ妻のことではなく子供の頃見た聖母マリアの絵を思い出していただけなのに、俺が急に黙り込んでしまったので誤解したのだろう。
 女が手元に置いてあったハンドバッグを引き寄せ、中から黒革の煙草ケースを取り出した。女のハンドバッグはシンプルな形で、財布一つ入らないんじゃないかと思うくらい小さかった。中から出てきた煙草ケースは良く見ると小さなダイヤやサファイア、ルビー、エメラルドなどの宝石類を使った細工が全面に施してあり、その中心には大きな黒真珠が丸く埋め込んであった。一目みただけでかなり高価な品物とわかった。
 女はバーテンダーにマッチを持って来させると、ケースの中から細く長い煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。女のその悠長な動作を見ていたら、なぜか俺は江戸の花魁が煙管を使っている様子を思い出した。俺もスーツのポケットからマルボロを取り出すとライターで火をつけた。女が煙草を嫌うかと思い遠慮していたのだ。
「わたしね、すごく変った仕事をしてるんです」
 女が唐突に話し出した。煙草に火をつけたせいでもないだろうが、ほんの少し女との間の空気が薄くなった気がする。女は酔っている。俺はそう確信した。この女の酔いはきっと、こんな風に出るのだろう。例えば、バーで隣に座った見知らぬ男に唐突に自分の話を始めるなど。
「あ、ごめんなさい」
 まだ酔いきっていないのだろう、女が我に返ったように言った。
「構いませんよ、お話して下さい。変った仕事…の話、ですか。興味がありますね」
 女は煙草の煙を燻らせながら不安げな様子で俯いてしまった。俺はグラスが空になっているのを見て、バーテンダーを呼びウィスキーとカクテルを追加してもらった。
 バーテンダーは一人黙々と仕事をしているようだ。離れた場所にいるし、聞き耳を立てている様子はない。
「じゃあクイズ。わたしは男の人の幻想を叶えてあげる仕事をしています。さて、どういうお仕事でしょうか?」
 女が再び話し出した。少し口調がくだけてきている。いい感じだ。
「男の幻想?」
「そう。男の人の幻想。幻想というより妄想かな。でも、大人限定ね」
「大人限定の妄想か。そりゃあやっぱり」
 俺はいいかけて口を噤んだ。それはもちろんセックスに関することだろうと思ったのだが、いきなり口にするのは憚られたのだ。
「やっぱり、何?」
 女が笑う。一本吸い終えると煙草ケースをバッグに仕舞い、ゆっくりと飲むだけに戻った。チェーンスモーカーではなさそうだ。俺は二本目に火をつけた。
「いいわ。教えてあげる。それは性行為です。見当はついてたんでしょ」
 女がちょっと声をひそめながら言う。
「セックス産業のひとつといえばひとつね。その人のしたいことを、わたしはさせてあげることができるの。でも、わたしが直接、してあげるわけじゃないんだけどね」
「ふうん、そうすると、君はそういうお店を経営しているの? 女の子を使って」
「違います。お店を経営したりはしていません」
 俺は女の言っていることが良くわからなかった。
「わたしは風俗嬢ではないの。風俗店を経営してるわけでもない。まあでも、同じようなものかもしれないけれどね」
「よくわからないな。じゃあ、紹介業? 電話一本で女の子を派遣する、とか。よくあるよな、そういうのも」
「それも違う。なんて言ったらいいのかな。世の中には、とんでもない願望を持っている人って結構いるのよ。いわゆる変態ね。わたしの、核となるお客さんは、ほとんどがそういう人たち。どんなに高い料金を支払ってでも、自分の願望を叶えたい人たち」
「そうか、わかった。イメージクラブみたいなところに勤めてるんだろう? あれって、直接の行為はなかったりするらしいね。行ったことはないけど」
 俺は女は好きだが、昔から風俗店などにはあまり興味がない。だからどんなものかよくわからなかったのだが、適当に言ってみた。
「それも違うわ」
 女が笑う。
「わからないな。想像もつかないよ。俺、あまりそういうの詳しく無いし」
 匙を投げた。
「いいわ、もう教えてあげる。わたしは、男の人の手を握ってあげるの。それが仕事。具体的にはたったそれだけ」
「手を握る?」
「そう。手を握ってあげるの。どういうことか、知りたい?」
「知りたいよ、もちろん」
 女は語り始めた。
 これが、結構長い話だった。その間、俺と女はどれだけの量の酒を飲んだことだろう。
 
 それは全く信じ難い話だった。要するに、女には特殊な能力があるというのである。それは他人にリアルな幻想を見せることが出来るという力だ。ただそれは、なぜか性行為に限られている。性幻想のみを女は客に見せてやることが出来る。そしてそれは射精を必ず伴う。放出したところで男は我に返るのだという。
 やり方も大体決まっているらしい。ホテルの一室で、裸にバスローブを羽織りしっかりと目隠しをした男の隣に女が座る。そして女は、男の手を握る。そこから先は理屈のさっぱり通らないオカルトの世界だ。
 男の手のひらを触っていると、内側から凝りのようなものが表面に浮き上がってくるのだそうだ。そしてそれを女は指でほぐしてやる。それは丁度肩こりをほぐしてやるような感覚で行うらしい。すると間もなく男は荒い息を吐き、口から涎をたらし、場合によっては声まであげながら射精する。その間約十分ほど。幻想は進みが早く、本人が感じている時間と、現実の時計はかなりずれているのだという。
 男の幻想は様々で、女も目を閉じればその世界を見ることができるが、大概はかなり気持ちの悪いものなので、わざと目を開け見ないようにしていることが多いらしい。
 世の中には変った趣味を持った男がけっこういて、現実にはそれを行うのが不可能だから、例え幻想でもリアルに感じられるものならば高い金を払ってでもやりたいという男が後をたたないのだという。そして、彼女が見せる幻想はかなりのリアリティを伴うものなので、一度それを体験しやみつきになった変態は、殆どがリピーターになるとのことだった。
「だってね」
 女がさらりと髪を揺らしながら言う。
「現実にはセックスしながら相手の女を殺したりできないでしょう。死体とセックスするのも難しいわね。ロリコンなんかもそうね。SMだってハードなものになれば、相手を探すのは簡単じゃないわ。よくあるところではレイプとか痴漢とか。監禁妄想がある人も結構いるかな。そういった、実際には実現できない願望が自分の思い通りに目の前に展開するんだもの。変態度が高い人ほど、お金をためてまた申し込んでくるわ。幻想のお値段は、けっこう高いんだけどね」 
 面白い酔いかたをする女だなと思った。こんな話をいきなり、知らない男にするなんて。 これで酔っていなければおかしいくらいなのだが、女は言っていることが変な割には全く顔に出ていない。
 俺は思い出す。
 そういえば死んだ妻も酔いが顔に出ない女だった。結婚前には二人で飲みに行くこともあったが、妻は顔に出さなかったし、飲みすぎて具合が悪くなったりということもなかった。いつまで飲んでいても、まるで飲んだものがその場で蒸発してしまったかのように、妻はいつもと変らぬ風に笑っているのだった。
 今思えば、結婚後は妻と外で飲むことも無くなってしまったし、妊娠がわかってからは妻はアルコールを一切口にしなくなってしまった。今思えば、ほんとうに妻は良い母になるべくがんばってくれていた。
 それなのに俺は。
   
「藤木さん?」
 女が俺をのぞき込む。髪の毛が流れるように手元に落ちた。
「ねえ、飲みすぎちゃった?」
 俺はいつのまにかぼんやりとしていたらしい。この女と一緒にいると、不思議にぐるぐるとした自分ひとりの回想の中に引き込まれてしまうような気がする。
「そんなことはないよ。ところで君は大丈夫なの?」
 女だってかなり飲んでいるはずだ。
「どうだろう、わからないな。わたしちょっとおしゃべりかもしれない。多分酔ってるのね。ここのお酒と、素敵な藤木さんに」
 女が調子よくそんなことをいう。酔っているのだろう。そうとしか思えない。そのうちに不意に黙り、小さく溜め息をついた。時刻はすでに深夜を回り、相変わらず客はいない。俺は久しぶりに、深い酔いの中にいた。
「本当は、嫌なの」
 女がつぶやいている。
「嫌なの、こんな仕事。でも、わたしにはもう他のことはできないの。この力を利用して生きていくしかない。中学生くらいの頃から薄々感じていたけど怖くて隠してた。男の子と付き合ったことなんてなかった。だって手を繋がない恋人同士なんていないものね。わたしはとにかく、男の人と手を握り合うわけにいかないんだから。もちろん恋人もできない。結婚なんかもっとできない」
「確かに、そんなおかしな特殊能力があったら、男性とつきあうのは難しいだろうね。でも、ひとりでそんな、ある意味危険な商売ができるの?」
 俺は半信半疑ながらも、女に尋ねた。
「今は、会社じゃないけど …とある事務所に属しています。それもほんとは嫌だけど、そうじゃないとやはり怖いから。仕事に関しては諦めたの。オーケストラじゃ稼げないから。わたしが手を握ってあげることで男の人達がどんな妄想を果たそうと、わたしの知ったことじゃないものね。見ないようにすれば、見ないでいられるし。わたし、子供がいるの。育てるのにはお金がかかる。それに母親としてなるべくそばにいてやりたい。そう考えると、わたしができる仕事はこれしかないのよ」
「君、子供がいるの」
 俺はちょっと驚いてしまった。目の前にいる女は、子持ちという感じは全くしなかった。
「ええ、います」
「何歳?」
「今月の誕生日がくれば四歳」
 女はにっこりと笑った。
「クリスマスの朝に産まれたんです」
 そう話したときだけ、女は幸せそうに見えた。
「そうだね、子供を育てるのは、お金がかかるよね。四歳か、うちにも同じ年の娘がいるからわかるよ。幼稚園だの習い事だの、親は大変だよな」
「ええ、ほんとに。この仕事は短い時間でたくさんお金がもらえる。だからやめることはできない。事務所がお客さんからいくら貰っているかは知らないんだけど、わたしにも結構な額のお金をくれるわ。場所は大抵、ここみたいなホテルの部屋。中で二部屋に仕切られているところをいつも使うの。スウィートか、それに准ずる部屋。お金のないひとは幻想さえ買えないわね。わたしがお客の手を握って導いているあいだ、事務所の担当者が手前の部屋で待っているシステムになっているの。わたしに危険が及ばないように。そしてその際、お客には厳重に目隠ししてもらうことになってる。けしてわたしが見られないように」
「見られるとそんなに困る?」
「第一にやはり危険だから。特殊能力ですもの。それと、相手に見られることによって、わたしが相手の幻想に引き込まれてしまう場合があるの」
「それは君の意志に反して、ってこと?」
「そういうこと。するとね、ちょっと面倒なことになっちゃうのよ ……。お客の中には有名人なんかもいるわ。みんな性に幻想があるのね。幻想は、その人が本当に見たいものが現れてしまうらしいの。今日はこの幻想で、なんて注文をつけられるものでもないらしいのね。クレームがついたことはないから、何が出てもそれなりに満足できるってことなんでしょうけど」
 俺は女の話を聞きながら、自分の幻想は一体なんだろうと考えていた。取りたてて人に隠さなければならないほど変態的な趣味もないし、となると、やはり幻想の対象は相手のことになってくるだろうか。今自分が幻想を見るとしたら、一体何を見るのだろう。たとえば、妻と俺がもう一度交わることが出来るとでもいうのだろうか。
「訊いてもいいかな」
「どうぞ」
 女が優しい声で答える。
「そういった幻想を求めてくる人で…例えば、亡くなった奥さんとしたがる人なんているのかな」
「いるわ」
 女は静かに答えた。
「でもね、そういう人は、大抵、一度だけのお客様ね。のぞいてみたこともあるわ…みんな、普通にセックスしてた。本当に普通に。自宅でね。時計の音や、虫の声がしたり。そういったことを望む人は、やはり年配の人が多かったわ。先に奥さんに死なれた人ね。きっと寂しいのね。奥さんに頭を抱っこしてもらったりしているわ。もう、子供のようになって。幻想の中では、奥さんが死んだってわかっていないの。夢の中みたいなものだから。そばでは赤ちゃんがすやすや眠っていたりしてね。最近じゃなくて、昔の夢なのね。大抵、自分も、奥さんも若くて。幻想そのものはセックスが主体だけど、それも安らかな思い出なのね。でもね、射精してしまうと、強制的にその幻想は終わってしまうの。夢から一気に覚めてしまう。そのときの喪失感が大きいらしいわ。わたしが見せてしまうのは、夜見る夢なんかとは桁違いの、あまりにもリアルな幻想だから。泣いてしまうひともいた。そういう人は、大抵、一度きりのお客様ね。二度と来ないわ。だって、どんなにリアルでも幻想なんだもの。かえって切ないでしょう」
「なるほど」
 俺はうなずきながら、それでもいくらかまだ酔いの回っていない醒めた部分の頭で考えていた。どう考えたってこんな話おかしいじゃないか、こんな話、ある訳がない、全部嘘だ、と。
「奥さんとしたいの?」
 不意に女がいう。
「そうなのかしらと思ったから。急にごめんなさい」
 俺は混乱し、どう答えればいいのかわからなくなった。
「そうしたいのかどうか、よくわからない。妻は自殺したんだ」
 俺は言った。女は黙っていた。
「ある日突然。なんの予告もなかった。理由はわからない。遺書も日記も、何もなかった。でも考えていると、理由なんかたくさんあるような気がしてくるんだ。俺にはその時妻の他に女が何人もいて、妻とはあまり会話も無くてね。でも、普通に暮らしていたし結婚生活なんてそんなもんだと思ってた。妻に浮気がばれていたのかどうかはわからないけど、妻が自殺なんかしたのは、もしかしたら俺のせいもあったのかもしれないと思うと、なんだか、やり切れなくてね」
 こんなことを知らない女の前で言うなんて、と思いながら俺は夢中だった。
 女はしばらく考えている様子だったが、そのうちポンと手を打った。
「それ、藤木さんのせいなんかじゃないわ。育児ノイローゼよ」
「育児ノイローゼ?」
「たぶんね。そうだと思う。二年前ってことは、お子さん二歳でしょ。二歳っていうのはね、魔の二歳って言われて、育児が一番大変な時期って言われているのよ。わたしも大変だったもの。おそらく、奥さんは藤木さんの浮気に気がついてる暇なんか無かったと思うわ。だから、奥さんの自殺は藤木さんのせいなんかじゃない。それに、本当のところは結局何もわからないのに、自分のせいかもしれないなんて思っていても、仕方ないでしょう。こういうことって、生きている人がいくら考えたって、わかるわけがないのよ。だって死んじゃう人の考えだもの。藤木さんは今、残された娘さんをがんばって大事に育てているんでしょう。それでいいのよ。もう気に病む必要はないわ」
 俺は女の言葉を反芻してみた。女は子供の頃見た聖母とそっくりの顔で、慰めるでもなく、あっさりとそんなことを言う。でもなぜか妙に安心してしまった。
「ところでわたしの話、どこまで信じている?」
 ふと女の声が響いた。まるで俺の心を見透かしているかのようだった。
「さっきの話。おかしな話だなって思ってるんでしょ」
 俺は苦笑いをした。
「多少ね。面白いとは思うけど」
「じゃあ、試してみる?」
 女はあっさりそう言って、右手を差し出した。俺は戸惑った。
「だって、藤木さん、信じてないんでしょう? 信じてないなら、いいじゃない」
 女はくすくすと笑っている。どういうつもりなのだろう。ただ、酔っているだけなのか。一体俺はどうすれば。
(なんだ、そうか)
 急に目が覚めた気がした。現実的に考えれば、これは、女が回りくどく誘っているだけではないのか。そう思いついた俺は、ちょっと自分を笑いたくなってしまった。いい大人がこんな話を半ば本気にするなんて。
「全く信じていないわけじゃないよ」
 俺も笑いながら答えた。今度は落ち着いて、余裕を持って笑えた。戸惑いは無かった。
(そうか。新手のナンパみたいなものなんだな。手を握るだなんて ...ありがちといえばありがちな話だ。そうすると、この女はやはり娼婦の一種と見ていいのかもしれない。もしかしたら料金が法外に高かったりして ...しかしまぁ滅多にいないくらいに、好みのタイプの女だから、多少の額なら払ってもいい)
「ふうん、じゃあ、やめておく?」
 女も笑いながら言う。
「いや、ぜひ君の手を握らせてもらいたいよ。でも握ると大変なことになってしまうんだろう? 君の話によればね」
「それはどうでしょう?」
「だって君はさっき自分でそう言ったじゃないか」
「そうね」
 俺はちらっと時計を確認すると、バーテンダーを呼び精算を済ませ、このホテルの中に部屋を一室取ってもらうよう頼んだ。明日も仕事だが、午後出社にすることが可能な職場なので、朝までこの女と一緒にいてもいいと思った。一夜を過ごしたら朝食を一緒にとって連絡先を交換する。昔もよくこんなことがあった。悪く無いと思える女に出会ったときの、いつものパターンだった。
「君の手、ゆっくり握らせてもらうよ」
 俺は優しく女に言う。
「このホテルに部屋を取ったよ。そこへ行こう」
「いいわ」
 女も頷き、二人でエレベーターに乗り部屋へと向かった。

 部屋に入ると、女は何も言わずベッドに腰掛けた。俺はすぐにでも押し倒そうかと思ったのだが、ふと、目の前に投げ出された女の手を見つめてしまった。
 真っ白な手。細い指。丁寧に整えられ、薄いマニキュアが施された爪。こんな綺麗な手をした女は見たことがないような気がした。
 じっと見つめていると、その手には確かに、握らずにはいられなくなるような魔力があった。それは目の前にいる女を象徴してるような気もした。
 俺は一瞬躊躇したが、まるで吸い寄せられたかのように女の左手を握り締めてしまった。
 すると、女が右手を伸ばして来て、まるで手のひらをマッサージするかのように、俺の手をそうっとさすりはじめた。
 その途端、背筋に妙な快感が走り、そのあとすぐに、俺の意識は落っこちてしまった。

 気がつくと俺は、田舎の無人駅のようなところに立っていた。そこは、見たことがあるような風景なのだが、はっきりとは思い出せなかった。ホームはあるけれど、駅名の看板もない。それなのに、ちょうど俺の足元から赤い毛氈のようなものが引いてある。それは駅舎に見える小さな建物の、一つだけの扉に続いていた。
 辺りは暗い。夜なのだ。線路は単線で、暗闇から来て暗闇に続いていた。駅舎には小さな灯りがあり、そこだけが目印のようになっていた。俺は毛氈の上を歩き、ひとつしかない扉を開けた。迷いはなかった。
 するとそこにさっきの女がいた。女は、幼稚園児くらいに見える男の子と、レゴブロックで遊んでいた。そして俺を見ると、にっこりした。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
「どういうことだ?」
「ここ、わたしの家です」
 確かにそこはごく普通のマンションの一室、のようなところだった。小さな駅舎のドアを開けたはずだったのだが、中は全く別世界だった。
 対面式のキッチン、窓の外には小さいバルコニー。明るい色調のフローリングの床には毛足の長いベージュのラグマット。全体的に小さい作りな気もされるが、貧しいような様子はない。部屋の中はクリスマスの飾り付けでいっぱいになっていた。
「ここでわたし、子供と二人で暮らしているの。お金を貯めてやっと買ったマンションよ。ちょっと狭いけど、とっても幸せ」
 女はキッチンでコーヒーを入れながらにこにこと話した。
「はい、どうぞ」
 目の前に、香りの良いコーヒーが出された。
 小さな白木のダイニングテーブルと北欧風の照明が、この部屋の雰囲気に良く合っている。クリスマスの飾りが賑やかだった。外はもう暗いが、部屋の中は明るく暖かだった。
「うちの子、紹介します。クリスマスの朝に生まれたからイエスくん …と言うわけにもいかないから、名前は良太です。ほら、おじさんにごあいさつしなさい」
「こんばんは!」
「あ、ああ、こんばんは」
「ちなみにわたしはマリアです …というわけにもいかないので、真里子です」
 俺は目の前に出されたコーヒーを飲みながら、話を聞いているしかなかった。
「さて、そろそろ良太くんはねんねの時間ね」
 女が子供を寝かしつけに奥の部屋へ行き、俺はぼんやりと待った。
 窓の外には何も見えない。暗いだけだ。いったいここはどこなのか、これは夢なのか夢じゃないのか。ただ、不思議と、怖くはなかった。しばらくして女が戻って来た。
「はい、お待たせ」
「ええと、真里子さん。これは一体どういうことなんだ?」
「藤木さんにお願いがあるの」
「お願い?」
「あのね、わたしあの子に兄弟を作ってあげたいの。良太が弟か妹をとても欲しがっているのよ。だから」
 そう言いながら、唐突に女は着ていたドレスを脱ぎ始め、セクシーな下着姿になった。なんの前置きもなかった。俺が想像していた通りの、細身でありながらなかなかグラマラスなボディが目の前に現れた。白く滑らかな肌に大きな胸。くびれた腰。柔らかそうなヒップ。すべすべとした形のいい脚。
「すごい。いい体だ」
 俺が思わず言うと、
「そうでしょ。思った通りでしょ。理想的でしょ。こういうの、好きなんでしょ」
 女がクスクス笑いながら俺の首に手を回して来た。
「キスして」
 俺は女の体に手を回し、キスをした。久しぶりのキスで、久しぶりの女の体だった。
 唇を離すと、女が言った。
「わたしを見たから、こうなっているのよ」
「どういうことだ?」
「手を握るとき目隠ししてもらう理由は、男性の幻想に引き込まれると、こうやってわたしが抱かれてしまうことにもなりかねないからなの。そうするとね、赤ちゃんができることもあるのよ。良太のときにはね、途中でお客さんの目隠しがはずれてしまって、それで出来てしまったの」
「そんなバカなこと」
「あるのよね。だってわたし、本当は処女なんですもの。赤ちゃんを産むなんて、変でしょ」
「嘘つくなよ」
「嘘なんかついていない、全部本当のことよ。わたしは処女。現実には、生まれて一度も男性に抱かれたことはないのよ。さっき、誰ともつき合ったことがないって話したでしょ。だから、良太ができたときにはね、信じられなかったけどとてもうれしかったの。わたしは一生子供を持つことなんかないんだろうなと思っていたから。やっと先日、マンションも買って、生活も落ち着いて来たから、わたし、あの子に兄弟を作ってあげたいと思ったの。最近ずっと、そう思っていたのよ」
 俺の頭は混乱するばかりだった。が、とりあえず、目の前の体は見逃せなかった。女の話は理解できるのだが、頭のどこかがおかしい。普段ならもっと強く理性が働いているはずなのだが、それがどこか麻痺している感じがした。
「処女だなんて嘘つくなよな。処女がこんなエッチな体してるわけないだろ」
 女の体は成熟した大人のもので、青臭さはどこにも無かった。ちなみに俺はもともと処女もお子様も趣味じゃないので、そういう意味でも理想的だった。
「それはね、あなたの幻想よ。あなたが、わたしの体を勝手にイメージしているのが出ているの。でもそんなことはどうだっていいわね」
 俺は女を押し倒した。場所はリビングの床だ。女は痛いかもしれないが、頭のどこかで、これは幻想なのだという思いもあった。しかしその感触は異様に生々しかった。
 俺は夢中で女を責めた。久しぶりだったこともある。薄い下着を全部はぎ取ると、見事な女体が現れた。女を抱き起こし、ベッドはどこだ、と尋ねると子供が寝ているので寝室はダメと言われてしまった。仕方なくソファに運び、キスをした。女もあまり慣れていないのか、最初はなんだか固くなっているような感じだったけれど、腰を抱いてしっかりと密着させ、逃げられないように顎を支えながらゆっくりキスしているうちに緩んできた。力が抜けたな、と思ったとところで一旦やめた。唇を離すと、女は目を潤ませていた。
「いや …。なんか熱い」
「当たり前だろう、抱かれてるんだから」
「子供、作るだけでいいのに」
「バカか、君は」
 女が顔を赤くしたまま目を閉じた。そのまま膝を割って、今度は胸周りを優しく愛撫しながらキスをした。少し怖がって早く済ませたがっているようだから、むしろゆっくり抱いてやろうと思った。
 大きな乳房をそっと持ち上げるようにして乳首をじっくりと舐めてやり、ヴァギナに指を入れるともうすでにたっぷりと潤んでいた。
「だめ、声が出ちゃう」
 女は必死に我慢している様子だった。隣の部屋で子供が寝ているのだから当然かもしれない。女の口を手で塞いでやり、足を広げさせるとヴァギナの入り口を長めに愛撫した。女は脚をばたつかせながらびくびくと体を震わせた。
「本当にもうやめて …もう、入れて」
「嫌だね」
「ひどい」
「なんでひどいんだよ。気持ち良くしてやってるのに」
もう一度押さえつけて口を塞ぎ、指を入れて中を探った。大抵の女は奥の上側に感じる部分がある。あまりしていないなら慣れていないだろうが、この女はわりと敏感そうだから、教えればすぐにくせになるんじゃないか。指にざらつきを感じて、ここかな、と思った。そうっとそこを撫でると、女は強く俺を押して暴れた。そうかここだな、とわかったのでさらに脚を押し開いて、動けないよう抑え、女が何度も痙攣してぐったりするまで愛撫を続けた。
その後やっと、入れてやることにした。固くなったペニスをゆっくりと女の入り口に当てると、膣壁が吸いついてくるようだった。
「ああ」
 思わず声が出た。想像以上に気持ちがいい。根元まで埋め込むと、子宮の入り口に当たっている感じがした。俺はゆっくりと動かした。女は喘ぎながらうれしそうに俺を見つめた。
「素敵よ、藤木さん …中に、たくさんちょうだい」
「いいのかほんとに」
「子供の兄弟が欲しいって、いったでしょ」
 どっちにしろ俺は、長く我慢することはできそうになかった。ヴァギナの締め付け具合から女の喘ぎっぷりまでが理想的なのだ。これが幻想の力なのか、この幻想は俺だけのものなのか、それとも女も一緒に見ているものなのか、女はちゃんと感じているのか、何がなんだかわからないまま俺は快感に溺れ夢中になってしまった。あまりの気持ち良さにすぐにはいきたくなくて、我慢をしているとそれにさえ軽い絶頂感が襲って来る。
 俺は女を見る。子供の頃見た聖母の絵にそっくりな女。目を閉じ、喘いでいる。
 そうだよな、もう妻はいないんだ。死んだものの理由を考えても仕方がないというのは真実かもしれない。聖母は案外薄情なこと言うんだな。しかしどうしてこの女はこんなにあの絵に似ているんだろう。どうしてこんなに俺の好きな顔をしてるんだろう。女も切ない声を上げながら俺に腰を押し付けて来る。ダメだそんなにされたら、 
「ああっ」
 あまりの気持ち良さに思わず声が出て、射精した …と思ったら、俺はいつのまにかホテルのベッドで、ひとりきりで寝転んでいた。
 体中がだるく、すぐには起き上がれなかった。すでに女はいなかった。
 下半身だけが裸にされており、履いていたズボンは脱がされ、汚れないようにとのことなのかハンガーにかけてあった。
 腰回りはかなりみっともないことになっていたが、周囲にちゃんとタオルが敷かれ、被害は最小にとどめられているようだった。
 時計を見て俺は驚いた。さっき、バーテンダーに部屋を頼んだときから一時間も経っていない。移動時間を含めたら、この部屋には三十分程度しかいなかったことになる。
(そういえば、幻想は現実の時間より早く進むとは言っていたが)
 俺はシャワーを浴びた。熱いシャワーをかぶると、少し冷静さが戻ってくるような気がした。なぜ女が消えたのか、を考えても仕方ないだろう。消えたかったから消えただけだ。
 今日の幻想のことだって、考えたからどうにかなるわけでもない。もともとありえない、信じがたい話なのだ。
 女はいなくなってしまったが、今から部屋をキャンセルするのも面倒になり、俺は結局そのまま、ホテルに宿泊した。



 まぁでも俺は、そんなことはすっかり忘れていたんだ。
 人間は現実に押し流されて生きている。
 たとえば、たまたま幽霊を見たからって、それで人生が変わるなんてことはない。普通はそうだろう? 今となっては、あの女が実在したのかどうかさえ定かではないけれど、俺にはそんなことを確認する気も暇もなかった。あのバーへもあれっきり行っていない。
 そんなわけで相変わらずの暮らしをしていた俺は、平日休みのある日、娘のお迎えに幼稚園へ行った。俺だって休みの日くらいは、ベビーシッターや母親まかせにせずに、娘の面倒をみることにしているのだ。けなげな父子家庭なのだから。
 娘も、やはりひとり親だからということもあってか、俺といるのが一番楽しそうだ。そんな姿を見ていると、母親が早くに死んでしまったことが不憫で仕方ないが、だからといって短絡的に新しい母親がいればいいなんてこともないはずだと俺は思う。俺自身も、特に寂しさなど感じない。どっちにしても他の女が本当の意味で妻の代わりになれるはずがないのだ。
 俺がいつも通り園児の下駄箱前で娘を待っていると、どこかで見た女が園庭の向うから歩いて来るのが見えた。
 もちろんここは幼稚園だから、娘の友達の母親だったりなど、顔見知りのお母さんたちは多い。けれどその女はそういう知り合いではなかった。ここでは初めて見る顔だった。
 俺はわけもなく焦った。頭の中で警報が鳴っている、けれど理由がわからない、そんな感じだった。その場から逃げ出すのも変だが、そこにいるのも落ち着かなかった。
 そのとき、娘が奥から走り出て来た。
「パパー」
「おお、美咲。帰るぞ」
 俺は慌てて娘の手を引き、先生への挨拶もそこそこに帰ろうとしたのだが、娘はそんな俺を逆に引っ張った。
「パパ、今日から来た新しいお友達だよ、良太くんって言うんだよ」
 娘の隣に、新しく来た園児だという男の子が立っていた。娘は人見知りするほうで、新入りの子とすぐに馴染むタイプではない。けれどその男の子とはすぐに気が合ったらしく、何やら楽しそうに会話をしていた。
(今、良太、って言ったよな。確か、良太って)
 俺は男の子のつけている名札を見た。
「はしもと、りょうた、くん ...」
 俺は完璧に思い出した。
(そうだ、歩いて来るのはあの女じゃないか。そして目の前にいるのは、あのときの子供だ)
 俺が言葉を失って子供たちを眺めていると、後ろから声がかかった。
「はじめまして、橋本です。さっそくうちの良太がお嬢さんに仲良くしていただいているみたいで、ありがとうございます」
 女がにこやかにそつなく頭を下げていた。
「ああ、は、はあ、いえいえ、こちらこそ」
 俺は何を言ったらいいかわからなくなくなってしまった。
「それじゃ一緒に帰ろうよ!」
 娘の一声で、俺は女と良太くんと一緒に幼稚園を出ることになってしまった。
「それじゃあさようなら、また明日ね」
 先生たちの明るい声に見送られ歩き始めたのはいいが、俺は完全に混乱していて、ちょっとした段差につまずいたりなどしてしまった。
「大丈夫ですか」
「は、はい」
 俺は短く答えた。何を話したらいいのかさっぱりわからない。第一、女の方はポーカーフェイスで、こっちに対して気がついているのかいないのか、それさえよくわからないのだ。
「パパ、ねーねー、良太くんね、弟か妹が生まれるんだって! いいなぁ」
 娘は良太くんと手を繋ぎ、俺の前を歩いている。そして時折振り向いて、しゃべりかけてくる。俺はギクリとした。
 俺は隣を歩く女に、思わず話しかけた。
「そうなんですか」
 見ると、女の腹が少々膨れている。
「そうなんです。今、七ヶ月に入ったところなんですよ」
 女もにこにこ顔で言う。うれしそうだ。そういえばあれから、半年くらいは経つはずだ。 この女は特に俺だからと意識している様子はない。一体どういうことなんだろうか。あのときのあれは、あの話はなんだったんだろうか。もしかしたら俺のことを、この女は覚えていないのだろうか。それとも、俺の頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「美咲も、兄弟、ほしいなあ」
 娘が大きな声で言う。
「それは無理だよ、美咲にはママがいないだろう」
 俺は仕方なく答える。これは本当のことだ、しょうがない。
「でも、良太くんもパパがいないんだって。でもちゃんと兄弟ができたんだよ」
「こら。良太、そういうこと、お友達に言っちゃダメでしょ」
 女が笑いながら良太くんにいう。俺は思わず女を凝視してしまった。すると、女も俺を見た。
 その目で俺は、女がちゃんとわかっていることを知った。
 すると、良太くんが俺をじいっと見ながらいった。
「ぼく、美咲ちゃんのパパに、会ったことがあるような気がするなあ」
「それは、きっと夢の中で、じゃない?」
 女はそう言いながら良太くんの頭を撫でた。
「それでは、また明日。わたしたち、こっちですから」
 二人は、途中で別れ道のほうへ行ってしまった。
 娘と俺は、しばらくの間道ばたに立って、俺は呆然と、娘はにこにこと、二人を見送っていた。


                                おわり




もしかしてブログ出すの初めてかも。
けっこう前に書いたものだけど、これはR18文学賞で二次選考まで通ったやつで、でも最終には残りませんでした。
男一人称はこの作品が最初で最後で、その後書いてないので、
難しかったなーという印象です。
やっぱり自分が男じゃないですしねー
正直なところ、自分が読むときも作家が男で女一人称とか若干違和感を感じることが多く(ものによりますが)
そう思えば、男一人称はつらかったのかなと思いました。
内容はというと書きたかったことが書けたので良かったと思います。
デルヴォーの絵が好きなので、満足☆

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無断使用はしないでください。

連絡先↓
tiarnu@gmail.com

































                                                                           
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