(短編小説)腐乱したい

 

「腐乱したい」(400字詰め原稿用紙67枚)
                    乃村寧音(チアーヌ)



 東京の私鉄沿線の、小さな街でわたしは暮らしている。
 住んでいるのは、それほど大きくない敷地に建てられた、六世帯入居のワンルームアパートだ。
 ふらふらと派遣社員をやってもう三年が経つ。その前は少しだけ結婚していた。
今年わたしは二十八歳になった。
 アパートでぼんやりお酒を飲んでいると、宇宙の中にひとりでいるような気がしてくる。
 夕方まだ明るい時間から飲み始めると、いつも照明をつけるのを忘れてしまっているのだ。気がつくと、周りはいつも夜だ。

 派遣社員をやっていて困るのは、仕事の間が空いてしまうことがあることだ。
 三ヶ月や半年くらいの契約期間が終わると、継続にならずに放り出されることが増えた。
 不景気だからということもあるが、わたしの勤務態度にもいくらか問題があるかもしれない。
 仕事があるだけましなのだから、もっときちんと勤めればいいのに、いつも緊張するのは最初の一日くらいで、あとはすぐにどうでもよくなってしまう。
 そんな感じで契約をさっさと切られると、一、二ヶ月仕事が無くなる。そうすると収入も無くなってしまうし、第一、ものすごく暇になる。
 こんなときに遊びまわって楽しく暮らせるほど稼いでいないし、貯金も無い。稼いだ分は、大体一ヶ月でぺろりと使ってしまう。収入が少ないせいもある。
 こういうのをその日暮らしっていうのかなあとたまに思う。けれど緊張感も緊迫感も何も無い。
 いつか女のホームレスになって路上でごろごろする日が来るのかもしれない。そしてその日は、そう遠くないのかもしれない。

 今回もまた、契約を切られ職無しになってしまった。
 何もすることがないので、わたしはアパートの近くの小さなバーへ酒を飲みに出かけた。
 この辺りでの知り合いは、ここのマスターしかいない。
 平日の深夜は、周囲が住宅地ということもあり、いつもほとんど客がいない。そういうときを狙って行く。
「ねえ、吉田さんのところでバイト雇わない?」
「お、いいねえ、経理見てくれるの?」
「それはめんどくさいから嫌。コップとか洗いたい」
「そんなバイトいらねえよ。簿記一級なんだろ、見てくれようちの店。で、うまいことやってくれない?」
「やだ。それに大丈夫じゃん、吉田さんのところは奥さんが見てくれてるんだからさ」
「それを言うなよ」
 わたしは空になったグラスを前に押し出しながら、マスターの吉田とだらだらしゃべっていた。吉田はちょっと迷っているような顔つきで、仕方なさそうにチンザノのロックを作ってくれた。
「それよりも、少し飲みすぎじゃないか」
「そうかなあ」
「だってもう六杯目だぞ。また体調崩すよ」
「だいじょうぶ、この間の風邪はもう治ったもん」
「お前、絶対飲み過ぎだって。うちに来ないときも、家で飲んでるんだろ」
「いいじゃんちょっとくらい飲んだって。他に楽しみないんだもん」
「他の楽しみかぁ。じゃあ、今日、やるか?」
「バーカ。ぜったいやらなーい」
 マスターの吉田とはいちおうつきあっている。
 吉田は三十五歳でこの近くに住んでいて、奥さんも小さな子供もいる男だ。
 わたしと吉田は別に鬱陶しい関係じゃない。お互いに楽だから付き合っているだけなのだと思う。離婚してすぐ、この町に引っ越してきてからの仲だ。
 そろそろ閉店かなあ、とわたしは思った。
 この店は毎晩七時からやっていて、客がいなければ午前一時過ぎには閉めてしまう。携帯の表示画面を見ると一時半を少し過ぎていた。
 吉田が店を片付け始めた。
 わたしも椅子から降りた。
「表の鍵、締めてきてあげる」
「そりゃどうも」
 吉田がちらりとわたしを見る。外から人が入って来られないように店の出入り口の内鍵をかけると、わたしは笑いながら戻った。
「さて。今からしようよ」
「ここで?」
「もちろん」
「さっきやらないって言ってたくせに」
「気が変わったの」
 わたしは着ていたワンピースをいきなり捲り上げた。
「バカじゃねえの」
 吉田がちょっと呆れたように言う。でも、すぐに手を伸ばして来た。
 わたしはちょっと逃げるように体をかわして、壁際のカウンターに腰掛けた。
 すると、吉田がわたしの両足を掴んで、下着をはぎ取った。
「意外にいい体なのが腹立つんだよな。ちゃんと脱いで見せろよ」
 ここ何年か体重が減り続けているのに、なぜか胸は小さくならない。肌が白いのは生まれつきだ。吉田は最初わたしの体を見たとき、かなり興奮していた。
「もう嫁も子どももいる俺みたいなのじゃなくてさ、ちゃんとした男と付き合えよ。まだまだお前、ぜんぜんいけるのにさ」
 女にバックから突っ込みながら言うセリフではないだろうと思うけれど、たぶん本音なのだろう。でもわたしは知っている。わたしはちゃんとした男となんか付き合えないんだって。

 仕事の無い日々は、ただひたすら、だらだらと過ぎて行く。
 派遣会社から電話があって、また半年契約の会社が見つかったらしい。来月から行くことになりそうだ。経理の資格があるおかげで仕事が決まりやすいらしい。しかしそれも三十歳を過ぎたらどうなるんだろうと思う。思うけれど、だからといって何も考えつかない。
 朝起きても何もやることがない。
 夏だ。暑い。
 それなのに、わたしのアパートのエアコンはなんだか冷えが悪い。壊れているのだ。備え付けのものだから、不動産屋に連絡をしてみたのだがらちがあかない。仕方なく扇風機を買ったが、そんなもので間に合うほど、東京の夏は甘くない。
 とにかく朝からあまりにも暑いので、自転車で五分のところにある図書館へ行くことにした。
 最近は、ほぼ毎日のように通っている。他に行くところがないからということもあるが。
 わたしは雑誌を読み倒し、単行本を一冊借りて、帰りにコンビニでアイスバーを買って食べた。かつかつの暮らしなので贅沢は敵だ。
 アイスバーを買ってしまったので、昼ごはんは抜いた。
 夕方になってあまりにもお腹が空いて倒れそうになったので、スパゲティを茹でて塩コショウとケチャップで味付けして食べた。

 夜になって、外の気温がいくらか下がってきたので、わたしは散歩に出かけることにした。東京の夜だから涼しくは無いけれど、昼間よりはまだましだった。
 いつもとは別な道に入り込むと、見慣れない通りに出た。この辺りは住宅街だから、どこへ行っても同じような風景で、少し歩くとすぐに道に迷ってしまう。
 どれくらい歩いただろう。夏のせいか、家々はカーテンや窓を開け放ちオープンで、網戸越しに人の影や電灯の傘やちらちら動くテレビの画像が見えた。
 そんな中をぼんやりと歩いていると、いつの間にか行き止まりの袋小路に入ってしまっていた。周囲には全く見覚えが無かった。
 ふと目の前に、東京の一軒家にしては広々と敷地を使っているように見える、生垣に囲まれた平屋の家が現れた。
 何しろこの辺りは住宅密集地で、新しく建つ家のほとんどは三階建ての小さな家が多いのだ。
 その家の門構えは、古いながらなかなか立派なもので、今風の大量生産の家とは違う風格があった。
 敷地にはヒメシャラやドウダンツツジなどが植えてあり、和風といえば和風だが、料亭やなんかの作り込んだ庭園の雰囲気ではなく、こじんまりとした落ち着いた庭に見えた。
 片隅には、白いなでしこの花がひっそりと群れて咲いていた。
そしてその家の門柱の上には、白い大きな猫がでろんと体を伸ばしていた。
 わたしは少し離れたところから、しばらく猫を見ていた。その猫はとても可愛らしかった。ゆっくりと近づくと、頭や体に触れ、撫でてみた。猫がぜんぜん嫌がらないのでうれしかった。
 そのとき、玄関の引き戸が、音を立ててガラガラと開いた。それまでなんの気配もなかったので、ちょっと驚いた。中から、白っぽいスニーカーに紺色のTシャツとジーンズの、大学生くらいに見える、ずいぶんと痩せた小柄な男の子が出てきた。
 わたしとその男の子は、一瞬目が合ってしまった。向うは向うで、ちょっと驚いた顔だった。それはそうだろう、いきなり自分の家の門のところに人がいたのだから。
 とりあえず、わたしは小さく頭を下げた。
 男の子は、わたしを確かめるように見たあと、挨拶してくれた。
「こんばんは」 
「あ...こんばんは」
「それ、うちの猫」
「あ、そうなんですか。可愛いですね」
「でしょ」
 その男の子は微笑むと、ひょいとわたしと猫をよけて、道路に出て歩いて行ってしまった。わたしはなんとなく、彼の背中を見送った。

 用事もなかったので、そのままその猫としばらく遊んでいると、辺りがすっかり暗くなってきた。わたしは立ち上がり、猫にバイバイをすると適当に道を戻り始めた。
 しばらく歩いていると、なんとか見覚えのある場所に出ることができた。
 正面に、吉田のバーがあった。
 いきなりここに出るのか、とちょっと驚きつつ、わたしは振り向いた。そこはいつもの道で、なんだか通ってきたところと違うような気がしたけれど、もう暗くなっていたから、なんだかすべてがはっきりしなかった。
 店に灯りが燈っているのが見える。
 それでついつい、吸い込まれるようにわたしはドアを開けた。

 中に入ると、珍しくカウンターが満員だった。
 今日は混んでいる日らしい。たまにはそういうこともあるのだ。
 よほど出直そうかと思ったけれど、わたしを見つけた吉田がカウンターの隅に臨時の席を作ってくれたので、そこに座り、コロナビールを貰った。
「果物でも食べる?」
 吉田がそっと尋ねてくれたのでうなずいた。良い人なんだと思う。いつも優しい。フルーツの盛り合わせを作ってくれたのでそれを食べた。今のわたしの体には、お酒よりもビタミンCが必要なのだろうなと思う。
 賑やかな店内は煙草の煙で霞がかっていた。ぼんやりとビールを飲んでいたら、ふと、どこからか視線を感じた。
 狭い店だけれど、一応カウンターの他にテーブル席が三つくらいある。ちらりとそちらの方へ目をやると、カップルが何組か手前の席に座っていて、一番奥の席に、男の子が一人でいるのが見えた。
 その男の子はなぜかこちらを見ていた。それで気がついた。その子が、さっき行き止まりの家で見た彼だということに。目が合うと、彼はさっさと立ち上がって、わたしの席の側まで来た。
「さっきはどうも。あの、良かったら一緒に出ませんか?」
 彼はいきなりそう言うと、わたしの返事もろくに聞かず、店のドアを開けて出て行ってしまった。わたしは釣られて席を立ち、店のドアを開けた。出るときに、ちょっと振り向いてみたけれど、吉田は気がついておらず、こちらを見ていなかった。
 店の外に出ると、少し離れた場所に彼が立ってこちらを見ていた。いちおう、わたしを待っていた風だった。
「良かった、出て来てくれて。じゃ、行こうよ」
 彼が先に立って歩き出した。別に急ぐでもなく、ゆっくりでもなく、振り向きもしないで彼はわたしの前を歩いていく。どこに行くのか、そういえば聞かなかった。話しかけたかったけれど、上手くタイミングがつかめない。わたしはただ、彼の後を追いかけていた。
 そしていつの間にか、再び行き止まりの家の前に来ていた。どこをどう曲がればここへ来るのか、二度目なのにさっぱりわからなかった。
 さっきの猫はまだ門柱の上にいて、わたしと彼を見るとゆっくり伸びをしてしっぽを揺らした。猫もしっぽを揺らすのだ。
 彼はすたすたと門の中へ入り、石畳を踏んで玄関の前まで歩き、引き戸を開けた。わたしも後を追いかけた。
 後を追いかけながら、どうして自分がここまで来てしまったのだろうと考えてみた。全然わからなかった。彼とはまだろくに口もきいていないのに。
 玄関の中に入ると、古い家特有の木の匂いがほんのりとした。縁側に沿った二間続きの和室を通り過ぎると、奥に木製のどっしりとしたドアがあり、彼はドアを開けその中へと入っていった。わたしも続いてその部屋に入った。踏み込むと柔らかな絨毯の感触で、洋室なのだとわかった。
 わたしが入って、ドアを閉めると、部屋の中は一気に暗くなった。
 ただでさえ照明のついていない家に入ってきたのだけれど、和室は外に面していたせいか、月明かりでほんのり明るかったのだ。それでも少し経つと暗闇に目が慣れて、少しは見えるようになった。いちおう窓もあるようだ。わたしは照明のスイッチを探した。
「何をしてるの? 早くこっちにおいでよ」
 彼は暗いことが気にならないらしい。目が慣れているのだろうか。わたしは仕方なくそのまま側へ行った。そしてゆっくりと見回した。ある意味なんの変哲もない部屋だった。
 白っぽい壁紙が貼られ、部屋の端に置かれたベッドの向こう側には大きな窓がある。月の光はそこから来ているようだった。窓にはレースのカーテンが下がっていた。それほど広くはなくて、六、七畳くらいな気がした。
 ベッドの他には小さな本棚と机があり、ずいぶん大きい、古そうなステレオがあった。その部屋にあったものは、良く見るとなんだかみんな古びて見えた。どこがというわけでもないのだが、強いていえばデザインが古い感じがした。
 それにしても暗い。わたしは、いつ照明をつけるのかなと思って、ふと天井を見上げた。 それで驚いた。蛍光灯も、電気の傘も、何もなかった。天井はのっぺらぼうだった。
 見ているうちに、何か自分の中でちょっと軸がずれたというか、妙な感覚がした。
「ねえ、暗いね。どうして、照明器具がないの?」
 わたしがそう言うと、彼は初めてそのことに気がついたような顔で少し苦笑いした。
「だって、必要ないでしょ」
「暗くなるのに?」
「関係ないじゃん」
 彼はカーテンを開け、窓も開けた。夏場の都内とは思えない涼しい風が入ってきた。
 どうやら外の方が明るいらしく、家の裏に植えてあるらしい大きな木の葉が風に揺れているのが見えた。
 彼が床に座ったので、わたしも隣に座った。彼は煙草と灰皿を取り出して、わたしにも一本くれた。煙草は久しぶりだった。
 床に置かれた大振りのどっしりとした灰皿は、深い群青色のガラスで出来ていた。煙草の銘柄は、見たことのないものだった。どこの国のものなんだろうと思った。
 彼は煙草をくわえながらステレオにレコードをセットして、低い音で音楽を流し始めた。
 始まった瞬間から、なんだか変だった。
 ズザザ…とラジオのチューニングが合わないような音が微かにして、曲そのものも、微妙にピッチがずれている気がした。それに、すぐ側のスピーカーから聞こえているはずなのに、遠くから音楽が響いている感じがするのだった。聞いていると、少し不安な気持ちになってきた。
 とても不思議な、ロック・ミュージックだった。ちょっとだけ聞けば爽やかにさえ聞こえてしまいそうな。歌は聞こえない。楽器だけで演奏されていた。
 隣を見ると、彼は普通に聞いていた。気分良さそうに。ふと、わたしと彼では聞こえている感じが違うのではないかと思った。あるいは、わたしの耳がどこかおかしくなってしまったのかもしれない。でも嫌な感じだとは思わなかった。遠くから聞こえて来るような音楽は、わたしにとっても快い響きを持っていた。
 わたしは貰った煙草を吸った。吸っていると、いつのまにか灰が落っこちそうなくらい、ぼうっとしてしまった。この煙草も、初めて吸うような、不思議な味がした。片手に煙草を持ったまま、彼とわたしはいつのまにかキスをしていた。
 意識してはじめたことではなくて、いつのまにかそうなっていた。
 ゆっくり、ゆっくり、キスをした。
 気がついたら、体中総毛立つように興奮していた。そして熱くなるのと脱力感が一気に襲って来た。
 煙草はどこかに落っことしてしまった。わたしは彼の背中に腕を回した。わたしと彼はしっかりと抱き合っていた。
 その横で、音楽は流れ続けていた。
 不意にとても悲しくなった。涙が出そうになって、必死に堪えたけれど無理だった。急に思い出してしまったのだった。心の奥に封印していた、いろんなことを。
 わたしはたまらなくなって彼を押し倒した。どうしてなのかわからないけれど、彼は押し倒してもいい人なのだと思った。彼は無抵抗で押し倒されていた。
「どうしたの?」
「どうしたらいいのかわからないの」
「そう。話したい?」
「うん」
「そっか。いいよ。でも、続き、しながら話して」
「じゃあ、バンザイして」
「バンザイ?」
「Tシャツ脱がすから」
 わたしが涙を拭きながらそう言うと、彼は笑った。そして、
「自分で脱ぐからいいよ」
と言った。

 三年前、離婚した。理由は、赤ちゃんが産めなかったからだ。
 学生のときからつきあっていた一回り年上の彼氏と、大学を卒業後すぐに結婚したわたしは、夫の希望もあってすぐに子作りに専念することになった。
 それはそれで構わなかった。そのときはわたしもすぐに赤ちゃんが欲しかったから。
 結婚してすぐに、夫の通勤に便のいい横浜のマンションを購入し、わたしは幸せな若妻をやっていた。何一つ悩みは無かった。料理教室に通って晩御飯に腕をふるい、家の中は毎日、塵ひとつないくらいにピカピカにしていた。ベランダガーデニングにも凝った。花が咲くたびにうれしかった。
 そんなある日、妊娠がわかった。
 その頃は妊娠検査薬を買い置きしていて、できたかなと思ったらすぐに調べることにしていたのだ。チェックしたらすぐに出た。喜んで、次の日すぐに近くの病院へ行くと、担当の医師は難しい顔をして、
「五週ですが、流産する可能性がありますね」
 と言った。
 驚いて、何に気をつけたらいいのか訊ねたが、特に何もないと言われた。
 その晩家で夫に話すと、とにかく大事にしてくれとのことだった。わたしも気を付けていた。それなのに、次の週に病院へ行くと、すでに心音が聞こえないとのことで、流産になってしまったのだった。
 ショックだったが、偶然だとも思った。たまたま今回、ダメだったのだと。
 おかしな話に聞こえるかもしれないけれど、一度流産してしまうと、なぜか次々に妊娠したくなった。そうすることで、流れていった子供にまた会えるような気がしたのだ。
 医師に三回目の生理が済んだら考えてもいいと言われ、すぐにまた挑戦した。
 でも、がんばったにも関らず、二度目も三度目も同じような経過を辿ってしまった。赤ちゃんが八週を越えて育つことは無かった。
 三度目の流産のあと、検査の結果、不育症と診断された。不育症というのは、簡単に言うと妊娠することはできるが赤ちゃんが育たないという症状だ。
 わたしの体は赤ちゃんを異物と認識してしまうらしい。だから子宮の方で赤ちゃんを受け入れず、胎盤に血栓を作って赤ちゃんを死なせてしまうのだということだった。
 ショックだった。わたしもショックだったが、夫もかなりショックを受けた様子だった。 でもそれは、どうやら自分の都合でそう思っていただけなようだった。
 今思えば、夫は完璧主義で他人に見栄をはるようなところがあった。夫はわたしに対して、どこか自分の中での完璧さを求めていた気がする。わたしは夫にとって、自慢の彼女であり奥さんでなければならなかったのだ。そのわたしに重大な「欠陥」が発見されたことを、夫はくやしがっているように思えてならなかった。
「もしかしてさ、君のお母さんもそういう体質?」
「これまでは聞いたことないけど…」
「じゃあ聞いてみたら。若い頃、流産してるかもしれないよ。そうだよな、そういうことって娘にもきっと言ったりしないもんなあ」
 夫はまるでわたしの母が流産体質で、それを受け継いだのだと決めつけるような言い方をした。頭にきたが、そのときはショックで何も言い返せなかった。
「でも、どうにかしようと思えば大丈夫なんじゃないの。お母さんだって君を産んでるんだし。今度はよく調べて挑戦しようよ」
 夫はそんな風に軽く言った。今思えば、夫はあまり深刻に考えたくなかっただけのかもしれない。わたしは三度の流産に伴う掻爬手術で、すでに体も心がボロボロだったというのに。

 四度目の妊娠は、慎重に行った。間をあけたほうがいいかもしれないと思い、半年くらい余裕を見てから挑戦した。妊娠初期から血栓をつくらないための薬を飲み、必要のないときには横になり、お腹の赤ちゃんをなんとか育てようと必死だった。その甲斐あって子供は順調に育ち、なんとか安定期のあたりまでこぎつけた。
 しかし、そこまでがんばっていたというのに、検診に行った際に子宮内で胎児の死亡が確認されたのだった。病院にいったときにはすでに死んでいたのだ。
 あまりにも突然のことだった。
 週数が進んでいたのですぐに緊急入院し、掻爬手術ではなく子宮口を広げて陣痛促進剤を入れるという、要するに分娩になった。
 ひどい体験だった。一旦痛み始めるとただうずくまって唸っているしかなかった。
 強制的に陣痛を起こしたのだが、腰にくる陣痛はまるでハンマーで殴られ続けているようで、ほんとうの出産のようだった。
 でも、ほんとうの出産ならば、これに耐えたら生きて産まれて来る赤ちゃんと会えるのだと思うことができる。しかしわたしが会えるのはすでに死んだ子なのだった。
 思ったよりも時間がかかるということで、夫は見ているのが嫌になったのか仕事があるとかなんとか言って帰ってしまった。待っていてもどうせ子供はすでに死んでいるのだからと思っていたのかもしれない。
 結局ほぼまる一日かかって、わたしは死んだ子供を産んだ。
 わたしが赤ちゃんを楽しみにしていたことを知っている病院のスタッフは、気の毒だと思ったのか気を使ってくれた。
「赤ちゃん、見ますか。お母さんだから、見たいよね」
「はい…」
「それじゃ、準備しますから」
 体中がひどく疲れ、痛み、股間は麻痺していた。
 しばらくすると、きれいな箱に入った赤ちゃんが運ばれて来た。赤ちゃんは、想像していたよりも大きく、十二、三センチあるように見えた。
 ちゃんと顔もあった。小さいだけで、ちゃんと赤ちゃんだった。眠っているような、微笑んでいるような、そんな表情に見えた。
 赤ちゃんの周囲には、花と、赤ちゃんが握って遊ぶような小さなおもちゃが添えられていた。
 今までもさんざんつらい思いをしていたのだから、もう涙も涸れたかのように思っていたのに、やはり赤ちゃんを見るとつらくて泣けた。
「旦那さん、呼ばないとね。役所に行ってもらわないと」
「お願いします」
 電話で夫を呼んでもらうと、しばらくしてやってきたが、夫は赤ちゃんを見たがらなかった。
「えっそれって見なくちゃいけないんですか」
「いやなら別にいいですよ」
 そういう人も多いのだろう。病院スタッフはあっさりしたものだった。夫は、事務処理だけはきちんとしてくれた。その間、少しの間だったが、わたしは赤ちゃんと二人きりになった。
 赤ちゃんからは、独特の匂いがした。ひどかった陣痛のせいで、どこか感覚がおかしくなっていたらしく、しばらくの間わたしにはそれがなんの匂いかわからなかった。
 そのうち気がついた。それは腐臭なのだった。
 わたしは赤ちゃんを眺めながら、くんくんと匂いを嗅いだ。
 赤ちゃんは、夏場のひどい月経の血をそのまま放置したような独特の匂いがした。それは同時に、わたしの子宮の匂いなのだとも思った。わたしの内蔵の匂い。赤ちゃんと一緒に腐っていった、わたしの血の匂い。
 赤ちゃんは、わたしのお腹の中に入ったまま、すでに腐りかけていたのだろうか。わたしは涙を流しながら、ずっと箱の中を見つめていた。

 それから一ヶ月くらいの間、わたしは家で腑抜けのようになっていた。体もつらかったし、どこか自分が自分でないような気もしていた。
 いちおう出産の形になったので、退院して家に帰ってからもわたしの体からは悪露が出続けていた。悪露というのは産褥期に子宮から排出される、胎盤の残りや子宮の滓のようなものを指すのだが、それが、なぜかやはり腐ったような匂いだった。あのときの、赤ちゃんの匂いだった。でもそれはわたしにとってはなぜかいい匂いに感じた。懐かしい匂いだった。

 死産から三ヶ月くらい経った頃のことだった。悪露はすっかりおさまっていて、匂いはしなくなっていたのだが、ある日ふとベランダに出て洗濯物を干していたら、どこからかあの懐かしい腐臭がしてきたのだった。
 いくらか風が吹いていたので、漂って来たようだった。いわゆる生ゴミとは違う、おそらくは生きていたものが、腐ったり、腐りかけたりしている匂いだと思った。
 それから毎日、わたしはベランダで微かな匂いを感じることになった。
 そして一週間くらい経った頃、マンションに警察がやってきて、ちょっとした騒ぎになった。それで匂いの理由もわかった。マンションの下の方の階で、老人男性が孤独死していたのだった。
 その老人は一人暮らしで、持病もあったということで、事件性はないらしいとのことだった。
 わたしはその部屋の近くまで様子を見に行った。マンションの管理会社の社員や、老人の親族と思われる人々がみな部屋の外で待っていた。中には警察しかいないようだった。近くまで行くと、さすがに強烈な腐臭がした。すぐそばで、ここの階の住人と思われる年配の主婦たちが集まって話していた。
「やあねえ。今は暑いから、あっという間だったみたいね....」
「ひどい匂いでしたよねえ。どこから来るんだろうって主人と話してたんですよ。でも、窓は閉まってたらしいんですよね。換気扇から漏れてたみたい」
「ちょっと前に息子さんらしい方が中に確認しに入ってましたけど、真っ青な顔で出て来ましたよ。わたしもついさっき来たんですけどね、なんだか最初から見てた人に聞いたら、警察が来てドアを開けた瞬間に、蠅がわーっと出て来たんですって」
「うわっ、いやっ」
 主婦たちは顔をしかめ、頷き合うと、もう話は終ったのかみな自分の部屋へと戻って行った。わたしも、そのあとしばらく見ていたら気が済んで、部屋に戻った。

 ちょうどその晩のことだった。夫がけろりとして、
「もうそろそろいいんじゃないの?」
 と言い出した。
 最初はなんのことかわからなかった。でも、よく聞いていたら子作りのことを言っているのだとわかった。わたしはぞっとした。はっきりとした嫌悪感を、夫に対して覚えた。
 この人は、わたしのことなど何もわかっていなかったのだと思った。
 どれだけわたしがあの日つらかったか。
 死んで産まれた赤ちゃんを見ようともしなかった夫。悲しんだのはわたしだけだ。その前にだって三人の子が流れているのに、夫はそんなことはすっかり忘れた風だ。
 忘れたというよりは最初から気にかけてもいないのだ。なんだかわたしは、夫のことがすっかりわかってしまった気がした。
「話があるんだけど」
「ん、どうした?」
「離婚してください。わたし、不育症だし、あなたの期待にはきっと応えられないから。子供が欲しいなら、他の人を探してください」
 夫は一瞬慌てた様子を見せたけれど、冷静に考えるとそのほうがいいと思ったのか、最終的には同意してくれた。

 一度夢中で抱き合ったあと、彼と二人でベッドに入っていると、ちょうど窓の外に月が見えた。月は、やたらと大きかった。なんだかちょっとバランスがおかしい気がした。
「まんまるだね、月。それになんだか大きすぎる気がする」
「まあ、そうだね」
「ありがとう、へんな話たくさん聞いてくれて」
「どういたしまして」
 彼は、猫の頭でも撫でるようにわたしの頭を優しく撫でていてくれた。
「あ」
 気がつくと、さっきの白い猫がわたしのすぐ側で丸くなっていた。いつのまにか来ていたらしい。
「猫が見てるよ」
 わたしがそう言うと、彼が不意にわたしをひっくり返して、
「ねえ、入れるよ。もう一回、いいでしょ」
 と言いながら上に乗り、キスをしながらゆっくり入ってきた。
 今までわたしの体に入ったすべてのペニスと違って、彼のペニスが入ってくると、なぜか完全に埋められてしまったような安心感があった。子宮口を押されるような圧迫感があって、息が浅くなり、その浅い息さえ、段々しなくてよくなるような。
 時々怖くなり思わず体を引こうとするのだけれど、わたしの下半身は彼の両腕でがっちりと押さえ込まれていて逃げることはできなかった。乳首を焦らすみたいに舐められると、それだけで何度も子宮が収縮した。彼はそのままゆっくりと腰を動かし始めた。
 二回目だったせいか、彼はなかなかいかなくて、わたしだけが何度もヴァギナの中を痙攣させることになってしまった。入れられたまま、何度もそんな風になって、こんなの普通じゃない、と思いながら気が遠くなっていった。
 あの音楽は、通奏低音のようにずっと部屋に流れ続けていた。

 目が覚めると、とても深い闇夜だった。外で虫が鳴くのが聞こえた。
「気がついた?」
 隣で寝そべっていた彼が半身を起こして、わたしに訊いた。わたしは曖昧にうなずいた。狭いベッドの足元には、猫が蹲って眠っていた。
「女の子とこういう感じ、ほんと久しぶりだな」
 彼が笑いながら言った。わたしもなんだか笑ってしまった。
「そうなの?」
「うん。俺、ずっと病気してたから」
「病気?」
「そう。つらかったなあ」
 彼はそう言うと部屋を出て、ミネラルウォーターを持ってきてくれた。
「ありがとう」
 わたしは一口飲むと、返した。彼はずいぶんとたくさん飲んだ。
「もう、寝ようよ。さすがに眠い。疲れちゃった、俺」
 彼はごろりと横になり、わたしを抱き寄せた。今日会ったばかりのはずなのに、なぜかそういう気がしなかった。そのまま彼の腕の中で、目を閉じた。

 次の日の朝、というか、目覚めたらもうお昼過ぎだった。目覚めはいつになくすっきりとしていた。わたしが目を覚ますと同時くらいに、隣の彼も目が覚めたのか、体を起こした。外は明るくて、部屋の中に光が差し込んでいた。
「腹減ったんじゃない?」
 彼が立ち上がって、部屋を出た。わたしも追いかけた。和室の後ろ側にキッチンがあり、大きな冷蔵庫が置いてあった。彼は冷蔵庫を開けた。卵や野菜が少し見えた。
「わたし何か作ろうか」
「いいの? じゃ、頼むよ」
 わたしは洗面所で軽く顔を洗って身支度を整えると、簡単な朝食を作った。コーンフレーク、プレーンオムレツにサラダ。インスタントコーヒー。
「ありがとう。お、いいじゃん、おいしそう」
 わたしと彼は、キッチンに置いてあった大きなダイニングテーブルに向かい合って朝食を食べた。
「この家には、誰か他に家族の人とかはいないの?」
「そうだね。もういないみたいだね」
 彼は他人事みたいに言った。
 食べ終わると、彼が流しでさっさと食器を片付けてくれた。
「いい天気だね。散歩にでも行こうよ」
 そう言われたので、一緒に行くことにした。
 外に出て彼について行くと、次第にあたりに大きな木が増え出して、いつの間にかわたしは見慣れない原っぱに入り込んでいた。
「ここ、どこ? ずいぶん広い公園みたい」
「俺の好きな場所だよ。子供の頃、良く来てたんだ」
 開けた場所に出ると、彼は用意してきていたらしいレジャーシートを大きな木の下に敷き、寝転がった。
「君もおいでよ」
「うん」
 わたしも隣に横になった。
 快晴だった。でも、夏なのになぜか暑くなかった。いつもと違っていた。風はあくまでも爽やかで、心地よかった。鳥が鳴いている。そして木々の葉ずれの音。
 ところでここはどこなのだろう。家のすぐ近くに、こんな気持ちのよい場所があったことを、わたしはなぜこれまで知らなかったのだろう。
「脱いで」
「えっでも」
「大丈夫だから」
 彼はわたしの体から、キャミソールとデニムのスカートを脱がせ、恥ずかしくて逃げようとするわたしからさらに下着も全部取ってしまった。そして自分も脱いで、わたしを押さえつけ、すぐに入ってきた。
「やだ、こんなところで」
「どうせ誰もいないよ。落ち着いて考えてごらん。気持ちいいだろう」
 彼が草の上にわたしを運んだ。普通なら背中が痛かったりちくちくしたりしそうなのに、柔らかい草にそっとわたしは支えられ、全く痛みなどなかった。
 そのうちに、体が地面にめり込んでいくのを感じた。彼のペニスが入っていると、それはちっとも怖くなかった。むしろそのまま沈んで行きたかった。
 と、思ったら彼はわたしを起こした。向かい合って座ったまましばらく腰を揺らされ、彼にしがみついたままいってしまうと、ゆっくりとキスをしてくれた。
 わたしと彼は終わったあとしばらくの間、寝転んでいた。
 気がつくと、ほんのり風が冷たくなっていた。
 「帰ろうか」
 彼が言った。わたしはうなずいた。

 どこをどう歩いているのか歩いてきたのかよくわからないまま、わたしは彼に連れられて再び行き止まりの家の前に来ていた。
 門柱の上ではあの猫が寝ていた。彼が何も言わないまま門の中に入って行くので、わたしは呼び止めた。
「あの。わたしそろそろ帰ろうかと思って」
「なんで?」
 彼が不思議そうに言った。
「昨日、急に泊まっちゃったし。もう、夕方でしょ」
「忙しいの?」
「そんなことはないけど…」
「じゃあ、入りなよ。別に帰らなくたっていいじゃん」
「うん、でも。そういえば洗濯物干しっぱなしだったかもしれないから。ねえ、また来てもいい?」
「もちろん、いいよ。いいけど、そうだ、ちょっと待って」
 彼はポケットから煙草の箱を取り出して、わたしに差し出した。
 その煙草は全く見たことが無い銘柄で、書いてある文字もどこの国の言葉なのかよくわからなかった。とりあえず英語でも日本語でもなくて、一度も見たことが無い文字だった。
「これ、くれるの?」
 わたしがそう言いながらその箱を開けると、煙草は一本しか入っていなかった。
「うん。あげるよ。またここに来るとき、道に迷ったら、それに火をつけてくればいい」
「道に迷ったら、この煙草に火をつけるの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「そういうもんなんだ。それに火をつけてくれれば、すぐに見つけることができるから」
 わたしは良くわからないまま、その煙草の箱をバッグにしまった。
「じゃね」
 それを見届けると、彼はあっさりとそう言って、家に入ってしまった。わたしは少し寂しくなった気がした。道路に出てしばらく歩き、一度振り返ると、光の加減なのか家がぼんやりとかすんで見えて、なぜか猫の姿も無かった。

 わたしはその夜、吉田のバーに顔を出した。
 昨日とは打って変わって、店は空いていて、吉田は暇そうだった。
「昨日はどうしたんだよ。いきなりいなくなってさ」
 吉田がグラスを洗いながら言った。
「ちょっと、知ってた顔を見たような気がして、それで」
 何と言っていいかわからず、わたしは言葉を濁した。
「昨日のお客さんでお前の知ってそうな人なんか、来てたかな」
「わたしもこの店で見るのは初めてだったから」
「ふーん。昨日は一見の客なんかいなかったけどなあ」
「そうなの?」
「ああ。昨日は、はじめての顔なんかいなかったよ」
 吉田が不審そうな声を出した。この店はもともと、住宅街の奥まった場所にあって、そう滅多に新しい客が来るようなところではない。吉田が不思議がるのは当然だった。
 わたしもふと口を閉じた。
「どんなお客さん?」
 特にわたしの行動に不審の念を持ったというわけではなくて、吉田は純粋にどの客なのか知りたいようだった。
「若い男の子。学生っぽいかなあ。でも社会人かな。ちょっとわからない。二十二、三歳に見えたけど。紺色のTシャツにジーンズで、すごく痩せてる」
「えっ、そんなの見てないぞ」
「そんなことないでしょ、いたもん」
 正直に言ったので、今度は逆にわたしが不思議に思った。
「いや、見てないよ。はじめての客だったらちゃんと顔見てるし、常連にそういう感じの子はいないし、こんな狭い店で客が入ってきたことに俺が気がつかないわけないだろ」
「だって、奥のテーブル席に座ってたよ」
 わたしはカウンターに座っていて、テーブル席に背を向けた格好で座っていたので、指差そうと振り向いた。そこでわたしの手は止まった。
 奥のテーブルなんて、無かった。
「あれ、昨日、あそこにテーブルなかった?」
「え?」
 吉田は一瞬何を言われたのかわからないような顔をしていた。
「奥のテーブルは、とっくの昔に片付けたよ。それで、そこに水槽を入れたんだ。もう半年も前だよ。気がついてなかったのか?」
 昨日彼が座っていたあたりには、大きなアクアリウム水槽が置いてあって、熱帯魚がゆらゆらと泳いでいた。そうだ、何で忘れていたんだろう。この水槽は、ずいぶん前からあったのに。わたしだって覚えている。なのに昨日は、目に入らなかった。何でだろう。わたしは訳がわからなくなった。
「どうしたんだよ、一体」
 吉田がわたしの様子を見て、心配そうに言った。
「大丈夫、なんか勘違いしてたみたいだから」
 とりあえずそう言うと、吉田はほっとしたようだった。
「そっか。ならいいんだけど。昨日は心配したからさ。あと、今夜なんだけど、早めに店を閉めて帰んなきゃいけないんだ。いいかな」
 吉田が済まなそうに言った。わたしがそのつもりで来たのだと思っているらしい。
「べつにいいけど、どうしたの?」
「明日、かみさんの実家の墓参りでさ。親戚が集まるらしくて、やたらと早起きして行かなくちゃならないんだ。ほら、今、お盆だろ」
「え、そうなの? お盆って八月じゃないの?」
「東京は七月なんだよ」
「へえ。知らなかった」
「だから、今日はちょっと」
 吉田が言い訳のように言った。別に気にしなくていいのにと思った。そのときドアが開いて、知らない常連客が入ってきた。それを汐に、わたしはそっと吉田の店を出て歩き始めた。
 わたしは心のどこかで迷いながらも、いつのまにか彼の家の方角へ足を向けていた。けれど、いくら歩いても、あの行き止まりの家には行き着くことができなかった。近所をぐるぐると回り続けていたら、わたしの住んでいるアパートの前に出てしまった。だからきっとあの家はわたしのアパートから近いに違いないのに、辿り着けないのはどうしてなのだろう。
 ため息をつきながら階段を上がり二階にある部屋のドアを開けた。部屋は妙に片付いていて、しんと静まり返っていた。
 シャワーを浴びると照明を暗くし、テレビをつけた。テレビをつけたまま寝るのは、離婚してこの部屋にひとりで暮らすようになってからの癖だ。離婚したことは後悔していないが、なぜか眠りにつくときは人工的でもいいからなんでもない人の声やざわめきが欲しくなるのだった。そしてわたしはベッドに入った。

 おかしいな、と思った。夜中にふと目を覚ますと、まだテレビがついていた。
 テレビはタイマーを設定してあるので、一定の時間が経てば自動的に消えてしまうようになっている。それなのに、消えていなかった。
 テレビでは深夜番組をやっていた。どうやら、音楽番組のようだった。わたしはリモコンを探してテレビを消そうと思った。けれど、なぜか体が固まっており動かなかった。
 金縛り、という言葉が頭に浮かんだ。これまで経験したことはなかったが、もしかするとこういう状態を指すのかもしれないと思った。
 テレビの画面は、どこかざらざらとして見にくかった。いつもより画像が荒い気がした。 テレビの中では次のバンドの紹介をしていた。お決まりの感じ。新曲についてのインタビューのあと、演奏が始まった。
 それは、彼の部屋で何度も聞いた、あの曲だった。 
 なんで今? と思いながら聞いていると、なんだか目眩がしてきた。
 目を閉じた。すると、ふと誰か側に人がいるような気配がした。再び目を開けると、ベッドの足元の方に、寄りかかるようにして彼がいた。彼はテレビを見ていた。そしてわたしの方へと振り向くと、言った。
「この曲、好きなんだよなあ。ずっと聞いていたんだ。聞こえなくなるまで。最後なぜか俺、ステレオで、この曲をリピートしたまま動けなくなっちゃってさ」
 返事をしたくてもわたしの体は固まっていて、声を出すことさえできなかった。そのうちに、誰もヴォリュームを上げてなどいないのに音楽がどんどん大きくなり、しまいには鼓膜が破れるのではないのかと思うほどの大音量になった。
 そんな中、彼がずるずると倒れるように、ちょうどわたしから見える位置で横になった。 眠ってしまったのかと思ったけれど、そうではなかった。
 彼はそのまま、わたしの目の前で、崩壊し始めたのだった。

 それはすごい早回しで展開した。
 横になった彼はすでに死体だった。彼の体はみるみるうちに黒ずみ死臭を放ち始めた。そして次第に気味悪く膨らんでいき、皮膚の下でごもごもと何かが動き始めた。それはしばらく続いたが、やがてぶちぶちと皮が破れ中から蛆が大量に流れ出て来た。皮膚の下で動き回っていたのは蛆だったのだ。
 それらは次々と蠅になり蠅が卵を産み蛆になり循環を繰り返した。部屋中に蠅がぶんぶんと飛び回り、蛆は彼の体中を埋め尽くした。彼の体は蛆の餌でしかなくなってしまった。
 次第に原型を失いものすごい臭気を放ちながら、最終的に彼は腐った液体になり周囲へと広がっていった。その上で蛆がびちびちと撥ねていた。
 わたしは脂汗を流し、叫び声を上げることもできないままひたすらその情景を見ていた。 そしていつか耐えられなくなり意識を失っていた。

 朝になり目が覚めると、アパートの部屋の中は何も変わっていなかった。
 あれは夢だったのだ。なんてひどい夢を見てしまったのだろうと思った。わたしは立ち上がり、洗面所へ行った。
 鏡を見ると、目の下に黒く隈ができていた。
 こんな黒い隈は、初めて見た気がした。そして顔の色全体も、なんだかいつもよりくすんでいるように見えた。生気がない、というのはこういう状態をいうのだろうか。
 なんだか急に痩せてしまった気もした。頬が妙にこけ、鎖骨が浮いていた。 眠っているはずなのに、食べているはずなのに。でも、体調が悪いという感じはなく、妙に元気なのだった。頭もすっきりしていた。
 何も用事はなかったけれど、気晴らしのためにわたしは外に出ることにした。家にいる気はしなかった。
 駅前まで歩き、ぶらぶらと目についたCDショップに入った。気になるCDを見つけて、しばらく迷っていたけれどそのまま棚に戻した。欲しかったけれど、お金が無かったのだ。
「買わないの?」
 後ろから声をかけられて振り向くと彼だった。びっくりしたが、うれしかった。
「あ。うん、買わない」
「そう。じゃどっかでお茶でも飲もうよ」
 彼はそう言うと、先に立って歩き出した。
 わたしと彼はビルの屋上にあるオープンカフェに入り、アイスコーヒーを頼んだ。
 風が心地よく、爽やかだった。彼と一緒にいるとなぜか、夏なのにちょっと涼しくなる気がする。彼はゆっくりと煙草に火をつけた。
 わたしはちょっと迷ったが、思い切って言ってみることにした。
「昨日の夜、わたしあなたの夢を見たよ」
「ふうん。どういう夢?」
「あのね…怖い夢」
「そっか、ごめんね。あれはでも、夢じゃないんだよ」
 彼は笑いながら謝った。一瞬、何を言っているのかわからなかった。まだわたしは何も、夢の内容のことなど話していないのに。
「えっ、どういうこと?」
「だから本当のことなんだ。俺はあそこで腐っちゃったんだ。俺、最後はああなっちゃったんだよ。君はそれを見たんだ」
 わたしは混乱してしまった。
 てっきり夢だと思っていたのに。夢じゃないとしたらあれは一体なんなのか。
「ねえ、よくわからないよ」
 わたしは泣き声になった。
「どうしてあんなことになるの。あなたは腐ってないじゃない。ここにいるじゃない」
「俺にもよくわからないんだ。ここには毎年戻って来てるけど、こうやって誰かと話ができるなんて初めてのことなんだよ。それも、女の子となんてね。ラッキーだよ。俺のほうが君に聞きたいくらいだよ。君はどうしてこうなっちゃったんだろうね、って」
 彼はずいぶんおいしそうに深々と煙草を吸っていた。
「君は、どうして俺に会えるのかなあ。俺に会えるっていうのは、たぶん、ほんとうはよくないことなんだと思うよ。でも、俺はうれしいけどね。だからこうやって、君に会いに来ちゃうんだ」
 彼は小さな声でつぶやいた。

 オープンカフェを出ると、彼は用事があってこのまま出かけるというので、わたしは帰ることにした。
「今夜、来るでしょ」
「うん。たぶん」
「あの煙草はちゃんと持ってるよね」
 彼がわたしに確認するように言った。
 わたしがうなずくと、
「じゃあ、夕方には帰って、待ってるよ」
 と、彼は優しく言った。そして笑顔で手を振り、駅のほうへと歩いて行った。

 吉田の店の前を通りかかると、準備中の札が下がっていたので、中にきっといるんだろうとわたしはドアを開けた。思ったとおり、吉田が店の中の掃除をしていた。
「今日はお店に出てくるの、早いんじゃない? お墓参りに行ったんじゃなかったの?」
「墓参りに行ったから早いんだよ。一回家に帰って寝るのもかえってだるくなりそうだったらさ、早めに店に出てきたんだ。ところでお前も暇だなあ、昼間からブラブラしてさ」
 吉田は手を動かしながら言った。手伝おうかと思ったけれど、とりあえず邪魔にならなそうなカウンターの隅に腰掛けた。
「わたし今月はお休みなのよ、言ったでしょ」
「あ、そうか。そういえばそうだったな。お前って派遣先が落ち着かないみたいだよなあ。そんなに積極的なタイプでもないし。将来店とか持ちたいっていうんでもないだろ。でもさ、なるべくだったらちゃんと就職するとか、考えたほうがいいんじゃないか。このまま東京で暮らすつもりならさ」
 わたしはうなずく。きっと吉田の言う通りなんだと思う。
「ま、ちゃんとしろなんて、脱サラ組の俺が言うことでもないけどな」
 吉田が笑った。
「そういえば、吉田さんってもともとこのへんが地元なの?」
「そうだよ。俺の一族って昔からこのへんでさ、もともと農家だったらしいよ。まぁでも昔持っていた土地はほとんど残ってなくて、今は住んでる家しかない状態だけど」
「じゃあこのへんのことには詳しいんだ」
「詳しいっていっても、大したことは知らないけどさ。なんで?」
「このへんに、原っぱってあったかなあ。結構大きな木がたくさん生えているような」
「うーん、今はないなあ。昔はあったけどな。俺が子供の頃は」
「どのへんにあったの?」
「ん? 今お前が住んでるアパートのすぐ裏手あたりから、かなり大きく広がってたよ。あのへんは、小さい頃の俺らの遊び場だったんだ」
「このへんも、ずいぶん変わったんだろうね」
「そうだな、ずいぶん変わったよ。バブルの頃は地上げとかもあったしな。のんびりしてるとは言っても、一応二十三区内だし」
「そっか」
 掃除が一段落したらしく、吉田もカウンターに腰掛けた。
「そうそう。今お前が住んでるアパートも、そういえば二十年くらい前までは一軒家だったもんな」
「一軒家?」
「うん。そうだいろいろ思い出した。でもこんなこと言ったらお前嫌がるかもしれないなあ」
「いいよ、気にしないからなんでも教えて」
「その家さ、最後に腐乱死体が出たんだよ」
 頭の奥で、いろんなことが符号してきた。へんに胸が波立った。
「どういうこと?」
「もともと親がいなくて、祖父母の家に住んでたっていう若い男だったらしいんだけど。で、その祖父母がそのうち亡くなって、一人暮らしになってた本人が病気で入退院を繰り返すようになってたらしいんだよね。そのうち、退院してきたときにポックリ死んじゃって…そのまま腐乱死体になっちゃったらしいよ。見つかったときにはかなり時間経ってて、発見されたときはすごい状態だったらしい。そうなると、家にそういう匂いが染み付いちゃってるだろ。だから、あそこを受け継いだ親戚がもうどうしようもないっていうんで、家を解体して土地を業者に売ったんだってさ。それでそのあとにあのアパートが建ったんだ」
 わたしは妙に納得した。怖がったほうがいいかもしれないのに、不思議と怖くは無かった。
「どうしたんだよ。黙っちゃって。あ、ごめん、やっぱり怖かった?」
「ううん、ぜんぜん」
「そっか、良かった。もうずいぶん前のことだしさ、殺人事件があったってわけでもないし、気にしないでいいと思うよ。あ、そうだ、コーヒーでも飲む? それとも、なんか食ったほうがいいか」
 吉田がわたしの顔を覗き込んで言う。
「ありがとう。でも大丈夫だよ、お腹空いていないし」
「あれ? なんかお前、ずいぶん顔色悪いよ。どうしたんだよ。それに、いきなり痩せた気がするぞ」
「えっ、昨日の今日でそんなことないでしょ」
「いや、なんか変だよ。もしかしてどっか具合悪いんじゃないの? ちょっと待って、急いで何か作ってやるよ。サンドイッチくらいなら食べられるだろ」
 吉田は立ち上がると、キッチンの中に入ってサンドイッチを作りはじめた。
 吉田はやっぱり優しい人なんだと思う。奥さんがいる人だけど、この人のおかげで、わたしはこの三年間、なんとか生きてこられたのかもしれない。
 でも、それもそろそろ限界なのかもしれない。
「ありがとう、吉田さん」
 今言わないと、もうお礼を言えない気がした。サンドイッチを食べさせてもらうと、わたしは吉田の店を出た。

 アパートの部屋に戻り、わたしはごろりと寝転んだ。眠くは無かった。
 テレビをつけると、夕方のニュースが始まったところだった。ぼんやりと見ていると、最後のほうで下町のお盆の風景が映った。今日が最後の日なのだそうだ。みんなが送り火を焚いていた。
 ニュースが終ると、いつの間にか、部屋の中が暗くなっていた。外の日が落ちたのだ。
 わたしは彼からもらった煙草とライターだけを持って、家を出た。
 ぶらりと歩き始めた。方角はあまり考えなかった。
 あまり入り込んだことの無い住宅街の奥へ奥へとただ歩いた。そうしていると思った通り、わたしは道に迷った。一体自分がどこにいるのかわからなくなった。そして目的の場所は、やはり見当たらなかった。
 迷ってしまったら煙草に火をつけろと、彼は言った。
 わたしは暗い路地の真ん中で立ち止まり、煙草に火をつけた。
 ゆっくりと吸い込むと、煙草の先が赤く燃えた。わたしは目を閉じた。
「何やってるんだよ」
 すぐに後ろから声がした。
 振り向くと、彼が猫を抱いて立っていた。わたしは会えたことにほっとして、泣きたくなってしまった。
「迎えにきたよ。こっち、こっち」
 わたしは彼の後を追いかけた。
 三十メートルも歩かないうちに、もう彼とわたしは行き止まりの道に入り込んでいた。家についたのだ。
 門を通り抜け、石畳を歩き、引き戸を開ける。奥の部屋に入るとすぐに、わたしと彼は抱き合った。
「会えて良かった。待ってたんだよ。俺はもうそろそろ帰らなくちゃいけない」
「帰るって、どこに?」
 質問には答えずに、彼は笑った。
「どうする、君も一緒に来る? いいところだよ」
 ぐらぐらと周囲が歪み、胸の動悸が激しくなり、口の中がカラカラに乾いた。
「でも、無理しなくてもいいんだよ。また来年、会えるかもしれないし」
「会えるかもしれないの?」
「うん。でも、会えないかもしれない。それはわからないな、俺にも」
 彼は静かに言った。
「会えないのは嫌だなあ」
 わたしはつぶやいた。
「俺は、正直ちょっと迷ってるけど。連れてっていいのかなって。でも、こうやって会えているってことは、君はもう半分こっち側に来てるってことだと思うんだ。そういう状態でこのままやっていくの、つらいだろ?」
 わたしはうなずいた。
 彼は、ふとベッドのほうを向くと、いきなりベッドのマットレスをぐいっと持ち上げた。それはまるでグランンドピアノの蓋を持ち上げるような仕草で、マットレスにはちゃんとつっかえ棒さえついていた。
「えっ?」
 意表を突かれて、わたしは驚いた。そばへ行ってのぞき込むと、ベッドのマットレスの下にはぽっかりと大きな穴が空いていて、下へと降りる階段があった。
 その階段は、どこまであるのかわからないほど、地下の暗闇の中へと延々と続いていた。
「なにこれ、すごい」
「実はベッドの下っていうのは通り道なんだ。驚いた? ここから来て、ここから帰るんだ」
 彼は笑った。そしてわたしにキスをした。そこへ、猫もやってきた。
「あ、あの子も」
「うん、来るときも一緒に来たんだ。毎年、一緒に来てる」
 そう言いながら、彼はわたしを抱きしめた。
「どうする?」
「うん。わたしも行く」
 言ってしまうと、心が決まった。
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、行こう」
 彼はうれしそうだった。そして、ポケットから煙草を取り出すと、まずは自分が火をつけて、それからわたしに一本くれて、火をつけてくれた。
 暗闇に、ふたつの火が灯った。ゆっくりと吸い込んだ。
 わたしと彼は手を取り合って、階段を降りはじめた。
 すると、白い猫がわたしと彼をするりと追い越し、先導するように先に降りて行き、やがて暗闇に吸い込まれていった。
 わたしと彼も、猫の影を追いかけながらお互いの煙草の火の灯りを目印にして、一歩ずつ階段を降りていった。
 わたしに見えるのは、しだいに煙草の火だけになり、彼の手のひらの感触だけが最後に残った。 
 そしていつしか、周りは完全な暗闇になり、無となった。彼もいなくなった。
 ちょっと先のほうに、ほんのりと白いものが見えた。先に立っていったあの猫だった。わたしはそこへ向かった。
 猫は薄ぼんやりと白く発光しながら、静かに蹲っていた。それはただ柔らかな光だった。
 周囲には、とても小さなたくさんの、赤ちゃんの手だけが見えた。 
 その手は、八つあった。
 それはふわふわと宙に浮いて、わたしを呼んでいた。
 ほんのりとどこからか、優しい腐臭が漂って来た。


                              おわり







ブログ版あとがき。
しばらく引っ込めていたのですがまた出しました。
お気に入りの作品だったので直しを入れようかな~と思ってたんですが、結局前のままです。
そのうちまた引っ込めて直すかもだけど、良かったら読んでください。
普段私のTLロマンス小説読んでくださってる方が読むと暗くてびっくりするかも^^
エロ描写はもっと増やしたいんですけどね、実際。この作品だったらあってもいいと思うかな。

スマホで見たら、なんだか表示とか段落がずれちゃっていて、読みにくかった方、すみません。
なぜだろう?編集画面で見ると大丈夫なんですけどねえ。
読みにくい箇所、なんかほかにもある感じしますね、
そのうちちゃんと直します.....

これまで書いた中で、自分ではなんとなくお気に入りの作品です。
エロでもホラーでもない、なんか中途半端なものになっちゃったんですが、
なんかPCの中だけに入れておくのも忍びなく^^
誰かに、読んでもらえたらうれしいなーって思います。

確かこれは小説講座向けに書いたんですけど、オール読物の新人賞に送って、
一次は通った^^たしか^^

感想などあればメールとかいただけるとうれしいです。
使用したいなどもあれば言ってくださいね~^^
無断使用はしないでね~。

ではでは。

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