「短編小説」便所童子

 「便所童子(べんじょわらし)」        作・乃村寧音
                                    


 都内から神奈川方面に向かう私鉄の沿線に住んでいる。新宿から四十分ほど、早くから開発が進んだ地域で、住民は高齢化し駅舎はコンクリお化けのようだ。そんな街の、古い団地の一室に女ひとりで暮らしている。広さの割に家賃が安いので助かっている。
 残業で終電に乗る羽目になり、駅から家まで歩く途中、わたしは焦り始めていた。到着までには住宅街の中の暗い夜道を十五分ほど歩くことになるのに、尿意が強くなってきてしまったのだ。駅のトイレでして来れば良かったと思ったけれど後の祭りだった。先月四十歳になったばかりなのだが、もう頻尿になってきたのだろうか。腎臓病で早くに亡くなった母を思い出しながら、必死でトイレの在り処を頭の中で考えた。
 通り道にコンビニがあるといいのだけれど、最近撤退したばかりだ。最近このへんでは、スーパーやコンビニがいきなり無くなってしまうことが多い。そう考えると、入れそうなのは途中にある小さな公園のトイレくらいしかなかった。
 昔はたくさんの子供が遊んだところなのだろうけれど、高齢化が進んだ住宅街の中の公園なので昼間も人は少なく、遊具も古ぼけてしまい、雑草も生え、なにやら荒涼とした雰囲気になっている。トイレは公園の端に立っていた。はっきりいって不気味だし、入りたくなかったけれど、背に腹は代えられない。我慢はほぼ限界に達していた。
 中に駆け込むと手前の個室に入った。奥は閉まっていたのだ。深く考えもせず用を足して、ほっとして目の前を見るとトイレットペーパーが無い。こういうトイレではよくあることだ。立ち上がって扉にひっかけてあるバッグの中からポケットティッシュを取り出したところで、隣の個室の側からいきなりドン、と叩かれた。
 ビクンとした。当然、誰もいないと思っていたのだ。時刻は0時半を過ぎている。気のせいかと思ったけれどそれにしては音が大きすぎた。しかし聞こえたと思ったのは一瞬だけで、あとは気配もない。急いで拭いていくらか震えながら下着とガードル、そしてストッキングを引き上げた。ガードルは固くて穿きにくく、ストッキングは引き締め効果のあるタイプだったので手間取ってしまった。こういったものを着るのは痩せたいからではない、会社の制服がタイトスカートなのでお尻やお腹や太腿が気になり、もう若くない女は体のたるみを抑えるタイプの下着を身に着けないと安心していられないのだ。
 少しの間その場で耳を済ませたけれど音も気配もないので、恐る恐る扉を開けた。走って逃げるつもりだった。もし万が一変態が忍び込んでいたとしてもわたしの姿を見れば追いかけてこないかもしれない。それに、高校生の時は陸上部で、四百メートルの走者だった。もうダメに決まっているが、それでも短距離なら大抵の男よりは早いはずだと思った。
 ところが、個室を出た途端、わたしの足はピタリと止まった。うわ、と思ったけれど叫び声は出なかった。そこにいたのは、小学校低学年くらいに見える男の子だったので。
目が細く鼻筋が通っていて髪がサラサラ。顔立ちは整っていた。紺のTシャツにデニムの半ズボン、足元はスニーカー。どこにでもいる感じの子供だ。
「こんばんは」
 とりあえず挨拶した。
「こんばんは」
 その子も挨拶した。
「さっき、壁を叩いた?」
「うん、叩いた。ねえ、遊ぼうよ」
「ダメだよこんな時間に。おうちはどこ?」
「ここだよ。ここが僕のうち」
 その子は笑った。
「ここがおうちのわけ、ないでしょう」
 そう言いながら、どこからか違和感が強く湧いてきた。何かがおかしい、何かが。
 うまく説明ができない。その子には、気配というものがなかった。生き物が持つ、何かの体温のような、そこにいるだけで空気の一部を乱すような、人間なら必ず持っているはずの「気配」が。すぐ目の前にいるのに、それが全く感じられないのだ。胸がざわざわとした。でもそれはけして、嫌な感じのざわざわではないのだった。わたしはどうしたらいいかわからなくなって、戸惑っていた。
「ここが僕のおうちだよ。ずっと前からそうだよ。ねえ、遊んでよ」
 さあ、と手を取られそうになって思わず引っ込めると、その子は悲しそうな顔をした。
「ふうん、嫌なんだ。なら、別にいいよーだ」
 その子はわたしに背を向けると隣の個室に入って行った。そしてそのまま消えた。追いかけて覗き込んだのだけれど、そこにはもう男の子はいなかったのだ。

 その後、もちろん逃げ帰ってきた。当たり前だ。誰も信じてくれないだろうけど、わたしが見たものは紛れもなくお化けだったんだと思った。あんなにはっきりお化けを見たのは生まれて初めてだ。
誰かに言いたかったけれど、わたしにはこんなとき気軽に話が出来る相手がひとりもいない。進学のため東京に出てきて、一人暮らしはもう二十二年目だ。当たり障りなく付き合っている知人はいても、気軽に長電話できるような友人はいないし、先日、長年付き合っていた不倫の恋人にも捨てられたばかりだ。
 終わったのは半年前だけれど、まだ引きずっている。つかず離れず五年間つきあった仲だった。それなのに、「妻にメールを見られたかもしれない」というひとことで話し合いも何もなくブツッと切られてしまった。電話もラインもいきなり拒否だ。わたしは「付き合っている」つもりでいたけれど、どうやら向こうにとってはそうではなかったらしい。わたしは単に気軽なセックス相手でしかなかったのだ。彼にしてみれば君も楽しんだのだから五分五分、と思っているかもしれない。確かにエッチは丁寧で優しかった。でも、今思うとそれだけだ。わたしには何も残っていない。彼のことを好きだった。どうやら気持ちが違っていたらしいということが、今も無性に悲しい。でも人に言えないということはわたしも自覚していたので追いかけなかった。わたしもずっと、本当は別の相手を探していたからだ。彼のことは確かに好きだったけれど、未来のない関係なのはわかっていた。もしも普通に付き合ってくれる独身の恋人が現れていたら、わたしも彼に対して同じことをしたかもしれない。そう思えば確かに五分五分で、怒りも悲しみも、どこへも持っていきようがないのだった。 
 次の日も体形を整えるガードルとストッキングを身に着け、スカートにブラウス、カーディガンという簡単な格好で家を出た。スーツじゃないのは、会社に制服があるので着替えれば良いからだ。正社員で入った会社は随分前に倒産して、それからずっと住宅建築の会社でパートをして暮らしている。二級建築士の資格を持っているし実務経験が長いので事務パートとしては重宝されて今の会社にも長く置いてもらっている。
 もともと彼は同じ会社で営業をしていた。でも半年もたたないうちに辞めてそのあとはずっと別の会社で働いているのでわたしとの関係は一切知られていない。住宅系の会社の営業はとてもきつく、中途入社で入ってきた営業マンのほとんどは三か月もたたないうちに音を上げて辞めていく。販売実績という結果が出せなければ死ぬほど居にくい職場なのだ。長くいる営業マンというのはかなりの強者が多い。住宅というお客さんにとっても一生に一度か二度ほどしかない大きな買い物を扱うのだから、並みの神経ではとてもつとまらないのだ。
 今日も残業になってしまった。担当している営業マンがトラブルを起こし、居留守を使ってその間あちこち走り回ってなんとかするというので、わたしが防波堤になりお客様をなだめ続ける係になってしまい、ただでさえ溜まっていた事務仕事ができず、遅くなってしまったのだ。件の営業マンは気の毒がってシュークリームを差し入れてくれたので、なんだコンビニかよ、と心の中で毒づきながらも有難くいただいて、二十二時までかかってなんとか仕事を済ませ会社を出た。
 中途半端な時間にシュークリームを食べてしまったのでお腹が空かなかった。新宿から快速電車に乗ると、偶然目の前が空いて座れたので目を閉じた。少しうとうとしたところで夢を見た。男の子が隣に座っているのだ。足をぶらぶらさせ、携帯ゲーム機を広げて何やら集中している。覗き込むと、男の子が顔を上げた。
「ねえ、買ってよ、これ」
 ゲーム機を目の前に差し出し、そんなことを言う。
「ダメよ、そういうの高いんだよ。わたしはお金持ちじゃないから、そんなの買ってあげられないし」
 思わずまともに答えてしまう。パートでかつかつの生活をしているのに、子供にゲーム機本体なんか買ってあげられるわけがない。
「大丈夫だよ、中古でいいからさ。中古なら半額のもあるんだ、買ってよ」
「だから無理だって」
「なんでだよ、いいじゃんかちょっとくらい、ケチ」
「大体なんで、わたしがあなたにゲーム機買ってあげなきゃいけないの。ママはどうしたのよ」
「ママはいないよ。だから頼んでるんじゃん」
「ダメだよ。とにかくダメ! そんな高いもの、買えないの、わたしは」
「ふん、じゃーいいよ。つまんねえの。そしたらシュークリーム食べたい。買ってきて」
「それくらいなら、いいよ」
 目が覚めた。すでに三十分くらい経っていた。その間、現実がすっぽ抜けて何もなくなっていた。間もなく最寄駅に到着し、降りた。
 駅前のコンビニに入って、さっき自分が食べたものと同じシュークリームを買った。そこまでするとなぜか肚が据わって、住宅街の中の暗い道を歩いているときから、ちょっと弾むような心持ちさえした。この気持ちはなんだろう、と考えているとすぐに昨日の公園に着いてしまった。
 中に入ると、奥の個室が閉まっていた。迷わず隣の個室に入ると、小用を足して出た。男の子が立っていた。
「はい、シュークリーム」
「あ、わあい」
 喜び方は素直だった。公園に出て水道で手を洗わせ、ベンチで食べさせた。
「ゲームはダメなの」
 食べ終わるとすぐにそんなことを言い出した。口の周りに砂糖の粉がついているので、ティッシュで拭いてあげた。
「ダメ」
「なんで。だから言ったじゃん、中古なら安いのあるんだよ。駅前の、ドルフィンってとこ。なんなら、古い型のでもいいよ。一個前のやつはすっごく安くて、三千円くらいのもあるって」
「ふうん、三千円くらいなら、わたしでも買ってあげられるかなあ」
「やったあ。あのね、そういうのなら、ソフトも百円のとかがあるんだよ」
「でも、なんでもいいわけじゃないでしょ」
「うん、そんときは一緒に行く。ぜったいだよ、ぜったい買ってよ」
「明日、行こうか。会社が早く終わったらね」
「うん。じゃあね、バイバイ」
 男の子はトイレの中に消えていった。わたしも家に帰った。

 次の日の仕事はすごくスムーズだった。いつもなら揉めそうな案件が揉めず、面倒なお客さんも来ない。よく晴れた九月の高い空の下、上棟式のお手伝いに出たらそこでなんとご祝儀を一万円も貰ってしまった。今どき珍しいことなのだけれど、普段リベートを貰いつけている営業マンがわたしにも「いいから貰っときな」というのでバッグに納めた。
 残業も無く定時に会社を出た。十八時はまだまだ明るい。最寄駅についてもまだ十九時前だった。いつもの反対側の出口に、「ドルフィン」という古本や中古DVDを扱うショップがあるのは知っていた。中に入ると、男の子の言った通り、中古のゲーム機も販売していた。それらはガラスケースの中に入っており、そういったものに疎いわたしには何がなんだか区別がつかなかった。
 眺めているといつの間にか男の子が隣に来ていた。
「早く店員さん呼ぼうよ」
「えっ、もうどれ買うか決まったの」
「うん。最初からわかってる。こういうのは言えば取ってくれるんだよ」
 わたしは店員さんに声をかけ、その場まで来てもらった。
「左から三番目の、メタリックブルーのやつ」
 わたしは頷き、男の子の言葉をそのまま伝えると、店員さんは鍵を開け中から取り出してくれた。展示品とは別に、奥に箱入りのものがあるのだ。値段は、中古で四千五百円とのことだった。
「ちょっと高いけど、いい?」
 男の子が不安そうに見上げてくる。わたしはご祝儀で一万円を貰ったことを思い出し、笑顔で頷いた。
「しょうがない、いいよ。だって欲しいんでしょ」
 そのあと、男の子の言うままソフトを三つ買った。それぞれが五百円から千円くらいだったので、一万円で十分おつりがきた計算になった。
 店を出ると、そばにファミレスがあったので一緒に入った。グラタンと、お子様ハンバーグセットを頼んだ。ドリンクバーもついていたので、男の子は何度も席を立ってカルピスやオレンジジュース、メロンソーダをお代わりしていた。そしてわたしがグラタンを食べ、コーヒーを飲み終える間、箱からゲーム機を取り出し、さっそく始めてしまっていた。
「面白い?」
「うん」
 ゲームに夢中になってしまうと男の子は無言になる。
 店を出ると、いつのまにか男の子は消えていた。見回したけれどいないので、わたしも家に帰った。

 それからはほぼ毎日、会社の帰りにあの公園に寄るのが日課になった。男の子は大抵、公園のベンチに座ってゲームしていた。
「ねえ、君は何歳」
「八歳」
「二年生か。学校は行ってないの」
「行くわけないじゃん」
「家に帰らないの」
「だからここが家なんだって」
「ママがきっと心配してるよ」
「だからママはいないんだって。じゃあ、ママを探してきてよ」
 珍しくゲームから顔を上げて、男の子が言った。
「探すって、どうしたらいいの」
「さあ、よくわかんないけど」

 さて今日も帰りに公園に寄って行こうかな、と思って帰り支度をしていたら不意に件の営業マンに誘われた。
「いつもお世話になっているのに、何もお返しできてないんで、たまには食事でもどうですか。美味い店があるんで、ご案内しますよ」
 どうしようかな、と思ったけれど結局了解した。まだ早い時間だったし、まず滅多にご馳走など食べられない生活をしているので、おいしい食事は魅力的だった。
 お酒もいけますよね、と確認されて、連れて行かれたのは和風の品のいい小料理屋だった。そこでおいしいお菜をいただきながら、ぬる燗で日本酒をいただき、いい気分になりつつ営業マンの愚痴を聞き続けた。仕事、会社、上司に対する、そして最後は奥さんに関する愚痴。話を聞きながら、あ、またこのパターンか、と読めてきた。
 住宅販売の営業は高額な歩合がある代わり、売れなかった月の収入はほぼ最低額なのでひどいものだ。下手するとパートのわたしより低い額だったりもする。収入の浮き沈みが激しいので人によっては派手にもなるし、稼げない月が続けばあっという間に退職に追い込まれることになる。奥さんとの仲も、金の切れ目が縁の切れ目になる人はかなり多いようだ。もともと派手な女を奥さんにしている場合もあり、どっちもどっちなのだが。
「でも槙田さんは売れてるほうじゃないですか」
「そうでもないだろ。最近、ほんとヤバくてさ。俺、あと半年持つかなあ」
 話を聞きながらそうかもね、と思った。うちの会社の営業マンの平均在職期間は、ならせば半年ほどだと思う。みな早い人で一か月持たないし、長くて二~三年だ。わたしは五年ほどこの会社でパートをしているけれど、最初に入ったときにいた営業マンは、今はひとりもいない。
「前からいいなと思ってたんだよ」
 身体を寄せて言ってくる。嘘だ、と思ったけれど否定してもしょうがない。のらりくらりと知らないふりをしていると、
「ねえ、口説いてんだけど。だめ?」
と、身も蓋もなく言ってきたので、
「いいですよ」
 と答えてしまった。 
 ずっと会社にいる人なら困るけれど、近々いなくなるならいいかもしれないと思った。わたしも今とても寂しい。大人同士の男女のやることは簡単だ。そのままラブホテルに行き、たくさんキスして、甘えて、イチャイチャとセックスした。すごく気持ちよかった。いい年した男女なので後腐れもなく、終電前にホテルを出て、新宿駅で別れた。
 
 適度に酔っぱらっていたのでいい気分だった。ぶらぶらと歩いて公園に到着すると、男の子がひとりでベンチに座ってゲームをしていた。最近はもう見慣れた光景になっていた。側に行くと男の子はわたしを見て
「あっ」
 と小さな声を上げた。
「どうしたの」
「その匂い、やだ。気持ち悪い」
「匂い? あ、ごめんお酒臭いのかな」
「お酒飲んできたの」
 男の子は嫌そうな顔をした。
 そんなに酔ってるわけでもないんだけどな、と思いながら自分の腕の内側とか、髪の匂いを嗅いでみた。ラブホテルで軽くシャワーはしたのだけれど、髪をちゃんと洗ったわけじゃないから、そういえば少し煙草臭い。煙草の匂いというよりは、男の匂いかもしれない。
「ごめんね」
 あやまった。男の子は下を向いていたけど、そのうち黙ったままトイレに入っていってしまった。あまり話をしてくれなかった。

 次の日は休日だった。公園に行ってみたけれど、老夫婦と、孫と思われる子供が遊んでいるきりで男の子はいなかった。昼間の、誰か人がいる公園には、男の子はいないのだ。
 家から菓子パンとミルクを持ってきていたので、ベンチに座って朝ごはん代わりに食べた。時刻は十時頃だったから、ブランチといったところだ。ぼうっとしていると、見知らぬおばあさんがやってきて会釈してくれるので、わたしも頭を下げた。その人はわたしの隣に座った。
「わたしね、すぐそこの家のものなんですよ」
「あ、はい」
 いきなり話しかけられて、戸惑いながらも返事をした。年齢は八十歳をとうに超えていそうだけれど、ぼけているような雰囲気ではない。かなりしっかりした口調だ。
「あなた、夜ときどきここにいるでしょ」
「あ、はい」
「何度も見たんですよ。どうしてなのかと思ってね。ほら、うち近いでしょ。二階の窓から、あなたがここに座って、トイレに何度も出たり入ったりしてるのが見えたの」
 困ったな、と思った。誰かに見られているとは思わなかった。でも良く考えたら住宅街の中の小さな公園なのだから、不思議ではなかった。
「すみません。あの、ご迷惑でしょうか」
 とりあえずそう言ってみた。古い団地に住んでいると、高齢者からの苦情には敏感になる。引っ越してきた当時、けして騒がしくしたつもりはなかったのに、床を歩く音がうるさいと真下の階から苦情が入った。どうしたらよいかわからず管理人に相談したところ、前の住民は床にクッションフロアを敷いて音が出ないようにしていたと聞き、自分も同じようにしたら苦情は出なくなった。音に敏感な人が多いのは知っている。
「迷惑とか、そんなんじゃないわよ。あなたのことが気になって」
「え、あの……。どうしてですか」
「あなた、家はどのへん?」
 わたしは住んでいる団地の名前を告げた。おばあさんは、ああなんだあそこなの、とつぶやいた。
「ここのトイレはね、すごく有名なところなの。近くの人ならみんな知っていて夜は近づかないのよ」
 お化けが出るってことなら知ってます、と言いかけて口を噤んだ。おばあさんがわたしの目を覗き込んでいるのがわかったので。
「あなた、八年前の事件のこときっと知らないんでしょ。あのね、このトイレで近くに住んでた女の子がこっそり子供を産んで、首を絞めて殺して、見つかるといけないからってバラバラにしてそこの水洗トイレに流して捨てたんだよ。奥の個室だよ」
 わたしは口を押えた。言葉がすぐには出て来ず、やっと言ったことばは「ひどい」だった。胸がぐるんと痛み、目から涙がボロッと出てきた。
「てっきり、あなたかと思ったんだよ。その母親が。改心して戻って来たんだと思ったのに」
 おばあさんがため息をついた。
「でも、違うみたいだね。その子なら、ニュースに顔も出たからわかるんだ」
 おばあさんは立ち上がった。
「いえね、別にいいんですよ、ここはみんなの公園なんだから。でもね、知らないであんな夜中にここにいるんだとしたら、教えてあげたほうがいいのかと思ってね。余計なことかもしれないけど」
「いえ、すみません。ありがとうございます。あの、わたし、また夜中にいるかもしれないんですが」
 泣きながらそう言うと、おばあさんは一瞬不審げな顔をしたけれど、頷きながら行ってしまった。

 その足で一駅向こうの市立図書館に向かった。図書館なら古い新聞記事が調べられるだろうと向かったのだけれど、今はインターネットでも見られると知り、その場で検索をしてあれこれ記事を見てみた。まずはあのおばあさんの言うことが本当かどうか。もし本当なら事件の内容を知りたかった。
 嘘ではなかった。事件は本当にあった。八年前というのはそれほど昔ではないので、資料はかなり多かった。わたしが知らなかっただけで、有名な事件だったのだ。
 当時二十一歳の女が望まない妊娠の末に及んだ凶行で、臨月まで家族は誰も気が付かなかったという。おばあさんの話と違うのは、出産はあの公園したのではなく自宅で行い、首を絞めて殺し、あのトイレで鋏と包丁を使ってバラバラにし、大半をトイレに流したが、一部流しきれなかった部分(おそらく頭部だろう)をビニール袋に入れてトイレのゴミ箱に捨てたところから足がつき、逮捕に至ったらしい。手がかりが少なかったため、逮捕されたのは一年後のことだ。女は犯行の動機を、「自由に暮らすのに邪魔だったから」と語っている。子供は出産後数日は生きていた形跡があるらしい。未熟児で生まれ、普通の新生児よりは小さかったようだ。
 逮捕後、女は懲役八年の実刑判決を受けている。ということは、まだぎりぎり、刑務所にいるはずだと思った。
 資料をいくつか読むと、わたしは近くにあった長椅子に座りこんだ。気が滅入ってどうしようもなかった。考えたくもないのについ想像してしまう。
 女は風俗嬢だったらしい。ホストの恋人がいたこともわかっている。おそらくその男の子供ではなかっただろう。実家で暮らしていたらしいけれどなぜ臨月まで家族が気付かないのか。よほど太っていたか、彼女に無関心だったか、それともわかっていて放置していたのか……。自宅で出産したというが、どんな状態で産んだのか。産んで二、三日は生きていたらしいけれど、その間、一緒にいたのかそれとも出かけてしまい赤ん坊だけを部屋に放置していたのか。一度くらいは、抱きしめてやったのか。
 最終的に邪魔になり絞め殺す時、迷いはなかったのか。
 無かったんだろうな、と思う。もしそんな気持ちが僅かでもあったなら、公衆トイレでバラバラにし便槽に流したあげく、頭部をコンビニのビニール袋に入れてゴミ箱に入れるなんていうことができるわけがない。本当に邪魔で、目の前から消えて欲しくて、排除したのだ。
 考えていたら、ぐらり、とその女の子の中に入ってしまった。一体誰の子供だったのかおそらく本人にもわからなかったろう。男がどうでもいい女にどれだけ残酷な仕打ちができるか、わたしだって少しくらいは知っている。その女の膣は数多くの男にとってただの便槽に過ぎなかった。便槽に捨てた精液から芽が出て花が咲いた。その花は切り刻まれてもう一度便槽に戻された。それだけのことだ。
 もしまだ刑務所にいるのならば、会いにいくことはできるだろう。もしかしたらあの男の子を連れていくことさえできるのかもしれない。しかしそんなことをしてどうするのか。でも、写真で見た女の顔は、どこかあの男の子と似ていた。
 その晩、公園に行くと男の子がいた。相変わらずゲームばかりしている。わたしが行くとちょっと得意げに、今ゲームがどのへんまで進んでいるとか、そんな話をする。今日はコンビニ買った焼きプリンを一緒に食べた。
「あのね、今日は大事な話があるんだけど」
「なに」
「わたしの家に来ない?」
「どういうこと」
「あのトイレを出てきて欲しいの」
「もう出てるよ」
「そうじゃなくて、ずっと」
「でも、ママが」
「ママなんていないでしょ。だからおいでよ。またゲームソフト買ってあげるし、ごはんも作ってあげるから。わたしと暮らそう」
「えっほんと。新しいソフト買ってくれるなら行こうかな」
 そう言って男の子が手を繋いで来た。しっかり触れられたのは初めてでちょっとびくっとした。ひんやりと濡れた感触があった。気配はないのに感触だけがあるのだ。わたしは思い切ってそのまま握り返した。その瞬間、あ、もう戻れないかもしれない、と思った。 
 家で男の子と暮らすようになると、生活ががらりと変わった。待っている者があるのとないのとでは、生活の張り合いというものが違う。子供がいるのだから早く帰らなければならないし、食事も毎日同じものというわけにいかない。おやつも必要だ。欲しいと言われ、ゲームの攻略本やマンガも買い与えた。
 そんなある日、男の子が言い出した。
「犬とか猫とか、飼いたい」
「どうして」
「だって昼間ずっとひとりなんだもん」
「でも、ここは犬や猫は禁止なのよ」
「じゃあ、他の動物でもいいよ。友達になれるかもしれないでしょ」
 管理人に聞きに行くと、犬猫は禁止だけれど、檻や水槽の中だけで飼える動物ならば良いことになっている、と言われた。
「じゃあ、小鳥とかはどうでしょう」
「大きいものになると禁止なのですが、小鳥ならば大丈夫ですよ」
次の休日、ホームセンターの中に入っているペットショップに二人で出かけた。鳥を飼うとなると、鳥籠などもセットで買わなければならない。出費は痛かったけれど、いつも男の子はひとりでゲームばかりしているので、本人の言うとおり友達を作ってあげたかった。
「小鳥ならいいんだって。ねえ、どれがいい?」
 男の子は籠に入った鳥たちを眺め、
「これ」
と、セキセイインコの雛を指差した。黄色と黄緑のツートンカラーで、とても可愛らしかった。でも雛は確か餌付けが大変なはず、と思い店員に尋ねると、やはり一日六~七回、お湯で柔らかくした餌を専用のスプーンで食べさせてあげる必要があるとのことだった。それじゃ難しいかなと思ったけれど、男の子はしきりに隣で、
「大丈夫、僕がやるよ」
と言い張る。店員さんには、お仕事をお持ちだったら無理ですよ、成鳥をお勧めします、と言われて困ってしまった。
男の子は雛のケースの前に座り込み、絶対に離れない構えだ。わたしは戸惑いながら、結局その雛を買った。
 男の子は本当にきちんと世話をしてくれた。その甲斐あってインコはすごく懐き、あっという間に手乗りになった。インコはゲームをする男の子の肩にとまって、丸い目をキラキラさせていた。
 日々は平和に過ぎて行った。仕事も私生活も順調、ってこういうことを言うんだろうなと思った。仕事が終わるとスーパーに寄って一目散に家に帰る。大した材料は買えなくても、毎晩のごはんがおいしかった。夜になると布団を奥の部屋に二つ敷いて並んで寝た。
ある時、男の子の姿が見えにくくなってきていることに気が付いた。朝起きるといなかったり、いてもずっと眠っていて反応がなかったりした。男の子は次第に薄れていってしまっているのだった。わたしは焦ってしまった。このままもしかして、と思うと胸がぎゅっと絞られるようだった。でもこれは男の子にとっては良い変化なのかもしれなくて、結局見守るしかなかった。
 そしてとうとう、男の子が全く見えなくなってしまった。何の挨拶もなく、愛用していたゲーム機やソフトは置き去りだった。もちろんインコも。インコはとっくに成鳥になっていたから、勤めのあるわたしでも面倒が見られるようになっていたけれど、それでも夜になると、わたしは取り残されたようで悲しくなり、布団の中で何度も泣いた。
わたしは何日も何日も待って、一か月くらい経った頃にようやく男の子はもういなくなってしまったのだと納得した。あの公園にもトイレにも、もちろんいなかった。
 でも時折セキセインコが、わたしが教えるはずのない言葉をいきなり喋り出すことがあり、不思議に思っていた。ゲームやマンガの決め台詞など。前に教えてもらったのかもしれないと思いつつ、いきなり言い出されるとびっくりする。
 そんなある日、家に帰ると男の子がいた。いつものようにゲーム機に向かっている。
「帰ってきたの?」
驚いて駆け寄ると、顔を上げて何?という顔をした。
「ずっといたよ」
「でも、見えなかった」
「あのね、九歳になった」
 よく見ると、なんだか一回り大きくなった気がした。
「三年生か」
「学校行ってないけどね」
 三年生といえば中学年だ。一回り大きくなるはずだ。でも、なぜしばらく姿が消えたのだろう。よくわからないが、そうなっているのだろうと思うしかなかった。
「ねーテレビ買って」
「だから、お金が無いって言ってるでしょ」
「ドルフィンに安いの売ってたよ。アニメ見たいんだもん」
 またか、と思ったけれど、実はこの一か月でわたしには大きな変化があった。なんと正社員になったのだ。勤めている会社は中小企業なので、社長の一存で大体のことが決まっていくのだけど、パートから正社員になるということはおそらくこれまで一度もなくて、わたしは奇跡だと思った。どうやらわたしがここしばらく、やたらと早く帰りたがったり仕事に熱心でなくなったのを見て、社長が「就職活動をしているのでは」と思ったらしい。功利的な社長は、これまで通り働いてくれるのなら安く使える事務パートの方がいいに決まっているけれど、逃げられるのは困ると思ったのだろう。わたしは資格も持っているし、いざとなれば設計の手直しもでき、お客さんの相談にも乗れる。今はあの会社の面倒な事務、例えば不正ギリギリのようなもの、も含めてすべて引き受けているため、手放すのはまずいと思ったのかもしれない。
 どちらにしても、給料も上がるし、ボーナスも出るようになった。お金に関しては、少し息が付けるな、と思い始めた矢先だった。
「そっか、じゃ、買いに行こうか」
 立ち上がりながら、ふと先の光景が目に浮かんだ。今はテレビ。そのうち二~三年経ったら今度はパソコンが欲しいと言い出すだろう。わたしが退職するころ、この子は三十歳近いということか。その後はどうなるんだろう。高齢ニートになっていくということか。
 それはそれでいいんじゃないの、と思った。手を繋ぐとやはり冷たくてぬるっとする。気配はないのに、この感触はなんなのだろう。
 ドルフィンに着くと、わたしは中古のテレビを買った。
                                                             おわり






あとがき


 この作品は、通っている「せんだい文学塾」に大・大・大好きな平山夢明先生がいらっしゃるということで、
「これはなんとしてでもホラー小説を書いて(なんとかでっち上げ)読んでもらわねば!」と思い、5日ほどでがんばって書き上げた作品です。
 最初はもっと怖く、グロイものを書くつもりでおりましたが、書いているうちに、寂しいとか、切ないとか、そういう気持ちの方が強くなってしまった気がします。
 途中のちょっとしたエロは、もっと濃くしても良かったのですが、主題と違うし、小説講座向けということで、少し抑え気味にしました。
 特に発表する予定もなく、半年くらいPC内に放置になってしまったので、とりあえずブログに出してみます。
 感想などありましたらお気軽にメールください。

 tiarnu@gmail.com

 なお、女性向け官能のジャンルで、商業でのお仕事もしています。
こういう感じじゃなくって、甘くてラブラブなヤツです☆
  ペンネームは同じです。「乃村寧音」で検索かけるといろいろ出てくると思います。
 お仕事のご依頼も、お待ちしております。
 
たとえばこんな感じのものです☆↓








 
 
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