(短編小説) 蟹妻

 「蟹妻」                            
                                    乃村寧音(チアーヌ)


 明け方ふと目を覚ましたら、隣で眠っていたはずの妻が、蟹になっていた。
 かさかさ、もぞもぞ。
 全長四十センチくらいはあるだろうと思われる蟹が、妻の枕のあたりでうごめいている。
 僕は驚いて体を起しメガネをかけ、じーっと蟹を見つめた。蟹は泡を吹きはじめた。どうやら本物の蟹のようだった。
「ど、どうして・・・。祐子、祐子、どこだ」
 家の中は静まり返っている。妻はいない。
 口の中でもごもごとつぶやいてみたが、らちが明かない。
 妻が消え、蟹がいる。
 これはやはり、妻が蟹になったとしか僕には思えなかった。
「ゆ、祐子。お前、祐子なのか」
 蟹は泡を吹き続けている。これはたぶん、僕に自分が祐子であることを知らせようとしているのに違いない。
 蟹、と言えば水中の生物だ。もしかして、陸では苦しいのか。
「待ってろよ、今、水を用意するからな」
 僕は慌てて立ち上がり、風呂場へ行くとタライに水を張り、蟹を入れた。
 タライに入れると、蟹は喜んでいるように見えた。
「祐子。どうして蟹なんかに・・・」
 僕は混乱する頭を必死になだめながら、会社へ行くしたくをはじめた。
 いつもなら、スーツとワイシャツとネクタイは、僕が起きたときにはすでに祐子が用意してくれている。元スタイリストの祐子のセンスは抜群だ。手先が器用なので家事もうまく、料理の腕も良く、祐子を妻にして三年、僕は充分に満足していた。
 僕は戸惑いながら着替えを済ませた。もちろんバターを丁寧に塗りなおしながら時間をかけて焼いたトーストや、僕好みの豆をミルで挽いて入れてくれたコーヒーもない。いつもなら僕が起きたときにはすでにテーブルの上に置いてある新聞も無い。きっとまだマンション入り口の郵便受けに入っているのだろう。
 きっと、蟹になってしまったから、食事も作れなくなって、新聞を取りにいくこともできなくなって、僕のスーツの用意もできなくなってしまったんだ。そうに違いない。かわいそうな祐子。
 したくが済むと僕は風呂場へ顔を出し、
 「それじゃ会社に行って来るよ、祐子」
 と声をかけ、家を出た。

 仕事をしていると昼飯の時間になった。仕事に集中しているときは僕もなんとか普通でいられたのだが、昼飯の時間になってしまうと、集中が途切れ、どうしても蟹になってしまった祐子のことが気になる。
「聡史さん、どっか行きましょうよ」
 後輩の後藤が声をかけてきたのを汐に僕は立ち上がった。

 会社からちょっと離れたところのコーヒーショップでパスタを頼んだ。後藤はもっと腹持ちのいいものを食べたかったらしいのだが、僕が気乗りしなかったのと、会社の人間がたくさんいる近くの定食屋へ行く気になれず、人の少ない店を選んだのだ。
「聡史さん、どっか具合でも悪いんですか」
 食後のコーヒーを頼むと、後藤がタバコに火をつけながら話かけてきた。
「いや、ちょっと」
 まさか、朝起きたら妻が蟹になっていたとはいえない。
「ちょっと変ですよ、どうしたんですか聡史さん。元気ないし」
 後藤はちょっと軽いが基本的には気のいいやつだ。こいつにだったら話しても、と一瞬僕は考えた。しかし、やはり迷う。
「いや、まぁ、大したことはないんだが・・・。あ、そうだ、そういえば、蟹ってどうやって飼えばいいか知ってるか?」
「蟹?蟹ですか? かう? ああ、そんなら魚屋で売ってるんじゃないですか」
「いやそうじゃなくて、もういるんだ、蟹が」
「えっそうなんですか。そしたらそういうのは、届いたらすぐにゆでるかなんかするんじゃないですか。俺の実家じゃそうでしたけど」
「いや、そうじゃなくて」
「あ、それとも食用じゃないみたいな、小さな蟹ですか? 釣りのえさみたいな? あれっ、聡史さんってそういう趣味ありましたっけ」
「ないよ。釣りのえさ? 蟹って釣りのえさになったりするのか。いや、だからそうじゃなくてさ」
「蟹って、どんな蟹ですか」
「そうだなあ、結構大きいんだ。四十センチくらいはあるかなあ」
「お、いいっすねえ。たらばとか、毛蟹とか。ずわいとか。そういうのでしょ」
「ああ、そうだな、うん、見たところはそういう感じだな」
「そっかなるほど、食べる暇がないんですね。そういうのはゆでたあと冷凍しておけばいいんですよ、実家じゃそうしてました」
「いや、だからそうじゃなくて・・・」
 話が噛み合わない。どんどんずれてくる。後藤と話していると、頭が混乱してくる。
「そうじゃないよ、そうじゃなくて、飼い方が知りたいんだ。だから、飼育法だよ」
 後藤は、タバコの灰を落としそうな勢いで目を丸くした。
「は? 飼育法? 飼うんですか? 蟹を?で かい蟹を? たらばとか、毛蟹とかを?」
「そうなんだ」
 後藤はふうっと煙を吐き出した。僕はしばらく前に煙草はやめている。ちょっと前まで、禁煙のせいかずいぶんイライラすることもあったが最近は収まってきていた。
「そういえば、蟹工船っていう小説がありましたね、あれは蟹の話でしたっけ。教科書に載ってましたよ」
「それ、蟹の飼育法が書いてあるのか」
「どうっすかね、読んだことないから。まぁでも蟹ってタイトルに入ってるくらいだから、そういうことも書いてあるんじゃないですか」
「なんだよ、適当なことばかりいうなよ。こっちは真剣なんだぞ」
「真剣っていわれても。うーん。あ、そういえばすし屋の生け簀にたまにいますよね。ってことは水槽で飼えるんじゃないですか? 塩水とか入れて」
「なるほど、そうか!塩水と、水槽だな。今タライに入れてるんだけどさ、やっぱりタライじゃダメだよな」
 僕は会社帰りに、水槽を買って帰ることに決めた。
 後藤はどこか珍しいものでも見るように僕を見ていた。

「ただいま、祐子」
 僕は会社帰りに熱帯魚店へ行き、大きな水槽と、海水の素だという粉薬を買ってきた。これをいれると、普通の水が海水になるんだそうだ。最近は趣味で海水魚を飼う人間が増えているということで、こういうものも市販されているらしい。
 熱帯魚屋のアルバイト店員は、不思議そうな顔をしながらそれを薦めてくれ、ついでに、
「あのー、たらばとかずわいとかは、北の海にいる蟹なんで、とにかく水を冷たくしたほうがいいんじゃないですかね」
と教えてくれた。なんでも、冷たい水を好む魚のための専用クーラーがあるそうなのだが、その店員も実物は見たことが無いらしく、おそらく値段も高いだろういうことだったので取り寄せてもらうことはしなかった。
「祐子!ほら、水槽だぞ。これから、塩水を作ってやるからな」
 風呂場のタライの中で、蟹の祐子がゆっくりと足を動かしながら、僕を見つめている。
 僕は風呂場の脱衣所に水槽を置くと、ホースで水を入れ、海水を作り、冷凍庫から氷をたくさん持ってきて、その中にどばどばと放り込んだ。要するに水を冷たくすればいいんなら、これで充分だろう。クーラーなんか必要ない。
 そして準備ができると、そこへ蟹の祐子を入れた。 祐子は持ち上げられたとき、ブクブクと大量に泡を吹いていたが、水の中に入れられるとそれも見えなくなった。
 「これでよし、と」
 僕はその様子に満足してリビングへと戻り、テレビをつけソファに寝転んだ。

 次の日の朝、僕は昨夜コンビニで買ってきたパンと牛乳の朝食をとりながら、ふと、蟹の祐子の食べるものはなんなのだろう、と考えた。そういえば昨日から何も食べさせていない。
 これはまずいぞ。
 ばたばたと家を出て駅までの道をスーツ姿で走りながら、僕はずっと蟹のえさについて考えていた。

「へっ。マジで飼ってるんですか? 聡史さんって変わったことしてますね」
 あきれたような顔で後藤にいわれたが、他に相談できるような人間がいなかったのだから仕方がない。
「いろいろと事情があるんだよ」
「ずわいとかたらばとか毛蟹とかを飼う事情って、どういう事情ですか? それ、すげえ知りたいっすよ」
「そのうち話すよ。で、蟹って何を食べるんだろうな、お前知ってるか?」
「蟹なんか飼ったことないから知りませんよ。あ、でもそういえば、こどもの頃ザリガニを飼ってたことありますよ。そのときは確か、煮干とかソーセージとかやってたなあ」
「ザリガニって蟹なのか?」
「よくわかんないですけど、ま、似たようなもんじゃないですか?」
「まあそうだな、蟹は海にいるんだから、たぶん魚とかそういうものを食べるんだよな。なるほど煮干か、よし、それでいこう」

 帰り道、僕は自宅近くのスーパーで、煮干を一袋買った。外で軽く食事をしてきたので、閉店時間の間際だったがなんとか間に合った。祐子がいないと、家で夕食が食べられないので不便だ。
 そして家につくと、僕はすぐに脱衣所に置いてある水槽へ向かった。
 蟹の祐子はおとなしくそこにいた。
 「祐子、えさだぞ。煮干だぞ。食べるだろ」
 僕は水槽の中に煮干をざばざばと入れると、少しほっとした。
 そして冷蔵庫からビールを取り出してリビングのソファに腰を下ろし、ふたを開けて飲みはじめた。

 次の日の朝、後藤と顔を合わせると、後藤が手を合わせながらにこにこと近寄ってきた。
「おはようございます聡史さん。実は今日の夜ちょっと、付き合って欲しいんですけど。合コンの人数足りなくなっちゃったんですよ。独身ってことで、来てくれませんか。ま、いつもの感じで」
 僕は見た目がまぁまぁなのと、無難な人柄を買われているのか、昔から合コンには良く誘われる。男のメンツを揃える場合、そこそこ女慣れしているヤツをひとりやふたりは押さえておかないと女のほうで二度と話に応じてくれなくなるから、僕のような既婚者なら逆にガツガツしていなくていいと思われているのかもしれない。そんなわけで僕は別に遊びが好きなわけでもないけれど、女には苦労したことがない。
「ああ、でも」
「何かあるんですか、今日」
 僕の頭の中に、蟹の祐子のことがちょっとちらついた。が、えさを与えてきたんだから別に大丈夫だろう。
「まぁ、いいよ。付き合うよ」
「すみません」
 後藤が笑いながら離れていった。

 その日の晩の合コンは、われながらとんとん拍子に進んで、気がついたら僕はわりとかわいい二十二歳の女子大生とホテルにいた。 僕は今年で三十三歳だし、正直その子のことはそんなにタイプでもなかったから強く誘った覚えは無いのだけれど、女の子の方がずいぶん積極的だったので乗せてもらうことにした。まぁ据え膳を断るのって逆に失礼だしね。
 女の子を送って、タクシーで家に帰りつくともう四時半だった。これから寝て、明日また仕事かと思うとうんざりしたが仕方がない。 玄関に入ったとたん、僕は睡魔に襲われて倒れこんだ。

「全く、聡史さんときたら一番おいしいところを攫ってくことないじゃないですか。結婚してるんですから、ちょっとは遠慮してくださいよ」
 後藤がニヤニヤ笑いながらいう。
「いやぁ。そういうつもりじゃなかったんだけど。あっちが積極的でさ」
「あの子が昨日のメンツの中では一番かわいかったですよ。俺も狙ってたのになあ」
「お前こそどうだったんだよ? そういえば途中からずっと二人で話し込んでた女の子がいたじゃないか。あのままいい感じに持って行って、連れて帰ったんじゃないの」
「ええ、まぁ。そうしましたけど、でも朝になってよく顔見たらぜんぜん趣味じゃないことに気がついて。頭も悪そうだし...うちに連れ込んだの間違ってたかな。ホテルにしておきゃ良かった。給料日前で金欠だったからついケチっちゃって。あーまだいたらどうしよう」
「なんだ家に置いてきたのか」
「朝起きたら時間無くて。あっちはまだ寝てるし。適当に帰ってくれていいからっていってきたんですけど」
「あーそれまだいるかもな」
「やめてくださいよ、いないこと祈ってるんですから」
 サラリーマンのランチタイムが終わりかけていた。後藤が思いついたように話題を変えた。
「そういえば、蟹、どうしました?」
「あ、ちゃんとエサやってるよ、煮干しとか」
「へー、家で飼えるもんなんですね蟹って。すぐにゆでなきゃだめなんだと思ってましたよ。でも、ほんと、なんで蟹なんか飼ってるんですか?」
「いや、うーん。だから事情があってさ」
「事情ってなんですか? そういえばこのあいだもそんなこといってましたけど」
 後藤が真顔でたずねてきた。僕はちょっと怯んだ。
 話していいものなのだろうか。
 少し迷ったけれど、こんなことを話せるのはやはり後藤くらいしかいないような気がした。僕は話すことにした。
「実は、妻が変身したらしいんだ」
「はぁ? 一体どういうことですか」
「明け方に目を覚ましたらさ、隣に蟹がいたんだよ。妻が寝ていたはずの場所に」
「蟹がですか?」
「ああ、蟹が」
「蟹って、たらばとか、ずわいとか、そういう・・・」
 後藤はちょっと唖然としているようだった。
「たぶんな」
「奥さん、もう起きて家事をしてたとかじゃないんですか」
「いや、家の中には誰もいないんだ」
「あのー、よくわかりませんけど」
 後藤は大きく息を吐きながらいった。
「それって、奥さんが蟹を置いて出て行っただけじゃないんですか?」
 僕は黙った。
「だって、いくらなんでも奥さんが蟹になるわけないじゃないですか」
「でも、じゃあなぜ蟹がいるんだ。ちょうど妻の枕のあたりにいたんだぞ」
「だから、それはよくわかりませんけど。あ、でもそういえばそういう小説がありましたね、朝起きたら虫になってたっていう。確か、『幼虫』とかいう」
「それ、『幼虫』じゃないだろ。タイトル違うよ」
 僕もそういいながら記憶は曖昧だった。
「違いましたっけ。朝起きたら、ものすごくでかいカブトムシの幼虫みたいなのになってるんですよ。確か悲惨な話だと思ったなあ」
「お前そんなの読んだことあるのかよ」
「ないですけど。だって怖いじゃないですか、そんな話。要するに怪談でしょ。俺、オカルトだめなんですよ」


 僕がその日、残業を終えて深夜に家へ帰りつくと、水槽の中で蟹が死んでいた。
 すでに蟹も水も腐りはじめているのか、風呂場には嫌な匂いが充満していた。
 与えたはずの煮干は、結局ほとんど食べた様子はなく、ただ水の腐敗を早めただけのようだった。
 早く水槽から出して処理しなくてはと思いながら、僕は腐敗した生き物の臭いに頭が痛くなり、そっと風呂場のドアを閉めると、リビングに戻ってビールの栓を抜き、飲みながらしばらく考えていた。
 あれは祐子なのだろうか。
 それとも、祐子が置いていった蟹なのだろうか。
 もしも祐子が蟹を置いていったということならば、なぜ祐子は蟹を置いていったのだろうか。
 いつしか蟹の腐った臭いがリビングルームへと流れてきていた。僕は耐えられずちょっと吐いた。床に吐瀉物が飛び散った。
 そして僕はそのまま、重たい体を寝室へ運び、ベッドへと転げ落ちた。

                                                おわり


ブログ版あとがき

この作品はずいぶん前に書きましたけど、今でもけっこうお気に入りです。
読んでいただければわかる通り、カフカの「変身」のイメージがなんとなくベースにあって、
インスパイアされて書きました。
高校時代、不条理ものが大好きでした☆
その中でもカフカはとってもお気に入りで、何度も読みました。「城」もいいですけど、
やっぱり「変身」はとってもキャッチーで、ぞくぞくして、10代のわたしは素直に、
「カフカってかっこいい~」
みたいな感じに思ってました^^
バカですねえ、でもバカで良かったのかも^^






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